野本村(読み)のもとむら

日本歴史地名大系 「野本村」の解説

野本村
のもとむら

[現在地名]東松山市上野本かみのもと下野本しものもと若松町わかまつちよう一―二丁目・神明町しんめいちよう二丁目・箭弓町やきゆうちよう三丁目・幸町さいわいちよう和泉町いずみちよう美土里町みどりちよう

松山町の南に位置する。村域は都幾とき川左岸に形成された低地から東松山台地上にかけてを占め、緩やかな南傾斜の地が多い。南東部に広い低地が開けた地形が地名の由来と思われる。松山領に属し(風土記稿)日光脇往還が通る。「風土記稿」は小名として金谷かなや(北金谷)在家ざいけ曲輪くるわをあげる。また本村は北西部の上野本、南東部の下野本と分ける場合もあり、文政一〇年(一八二七)の村明細帳(屋代家文書)によると検地帳は「上下野本村分」で一冊、曲輪分・金谷分が各一冊、新田分二冊の計五冊があった。

下野本の将軍塚しようぐんづか古墳には平安中期の鎮守府将軍藤原利仁が居住していたという伝説があり、鎌倉時代には同古墳の近くに利仁の後裔野本氏が館を構えていたという(風土記稿)。「尊卑分脈」によると利仁の裔、竹田頼基(斎藤姓)の孫基員が武蔵国に住し、野本左衛門尉を号したといい、「吾妻鏡」にも基員、基員の子時員、時員の子行時などの名が散見する。下野本無量寿むりようじゆ寺蔵の応永二三年(一四一六)六月一日の年紀がある木造阿弥陀如来坐像の像内背面には「重奉粧(飾カ) 武州比企郡野本郷無量寿寺」との墨書銘がある。「鎌倉大草紙」によると結城合戦さなかの永享一二年(一四四〇)七月、上杉憲実は神奈川かながわ(現神奈川県横浜市神奈川区)を立ち、「野本・唐子」に逗留し、下野小山庄の祇園ぎおん(現栃木県小山市)に向かっている。「永享記」「鎌倉九代後記」などにも同様な記事がみられる。小田原衆所領役帳は御馬廻衆の宇野藤五郎の所領として「松山筋野本京方之内」二六貫四六三文、江戸衆の遠山丹波守(綱景)の所領として「比企郡野本鎌倉方」五〇貫三〇〇文、他国衆の案独斎(上田朝直)の所領として「比企郡野本京方」一一八貫八八〇文がみえ、京方と鎌倉方に区別されていた。綱景・朝直の所領では弘治元年(一五五五)検地が行われたとの注記がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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