日光脇往還(読み)につこうわきおうかん

日本歴史地名大系 「日光脇往還」の解説

日光脇往還
につこうわきおうかん

この街道は統一された名称が付されていたわけではないが、江戸時代に八王子千人同心が交替で下野日光山火防のため通行した道で、日光脇往還とも称すべき重要街道の一つであり、八王子千人同心はちおうじせんにんどうしん道ともよぶ。道筋は武蔵多摩郡八王子から入間いるま二本木にほんぎ村・扇町屋おうぎまちや(現入間市)、同郡坂戸村、比企郡松山町(現東松山市)、埼玉郡行田町(忍城下)を通るもので、上野館林城下を経て下野佐野町日光例幣使街道と結ばれていた。八王子千人同心が「日光火之番」を命ぜられたのは慶安五年(一六五二)からである。当初は江戸―千住せんじゆ(現東京都足立区)経由で日光へ往来しているが、承応二年(一六五三)から拝島はいじま(現東京都昭島市)―松山町―佐野町経由の往来となっている。また勤番の期間も当初は五〇日間であったが、江戸後期になると半年間の勤番で交替となっている。なお勤番の人数は千人頭一名・同心五〇名であったといわれる(「日光脇往還」歴史の道調査報告書)

「風土記稿」の関係各村の項にこの街道の記述がみられるが、現埼玉県域最初の宿継所である二本木村の項には「此所古クヨリ八王子ノ者日光ヘ通フ往還ノ宿駅ニシテ」とあり、扇町屋村の項では「此所八王子ヨリ日光ヘノ街道ニ当リテ」「青梅町ヨリ川越城下ヘ通フ道モ二条アリ、何レモ宿ノ前後ニテ日光街道ヘ係リ」と記されている。

日光脇往還
につこうわきおうかん

江戸期の脇往還で、八王子と日光を結んでいた道。江戸と日光を結ぶ日光道中に対し日光往還と称された。「武蔵名勝図会」は日光道とよび、また日光街道とも称したといい、慶安(一六四八―五二)の頃から開かれた道という。日光方面からは八王子道ともよばれた。道筋は、八王子横山十五はちおうじよこやまじゆうご宿のうち八日市ようかいち宿と八幡はちまん宿のあいだのよこ(現大横町)甲州道中から分れ、北進して拝島はいじま(現昭島市)多摩川を越え、拝島箱根ヶ崎はこねがさき(現瑞穂町)を経て、現埼玉県域に入る。慶応元年(一八六五)の日光道中記(原家文書)には八王子より扇町屋おうぎまちや(現埼玉県入間市)まで五里三五丁など、日光までの二一ヵ宿の宿駅間里程が記され、全長四〇里、途中に船渡し八ヵ所・徒歩渡し二ヵ所・橋五九間があったとする。

日光脇往還
につこうわきおうかん

武蔵国鴻巣こうのす宿(現埼玉県鴻巣市)で中山道から分れ、同国新郷川俣しんごうかわまた(現同県羽生市)利根川を渡り上野国邑楽おうら郡川俣(現明和村)から館林城下を経て下野国佐野さの(現栃木県佐野市)に至り、日光例幣使街道に合流し、さらに日光街道と合する。江戸から日光までの全行程三九里三五町。一般には鴻巣から佐野に至る九里七町の短い区間をいった。日光裏につこううら街道・江戸街道などともよばれた。天正一八年(一五九〇)館林に入部した榊原康政による城下町の整備に伴い、城の西方を南北に縦貫する大通りが開削された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報