野津道貫(読み)のづ・みちつら

朝日日本歴史人物事典 「野津道貫」の解説

野津道貫

没年:明治41.10.18(1908)
生年天保12.11.3(1841.12.15)
明治期の陸軍軍人薩摩(鹿児島)藩士野津柴介の次男。11歳で父母を亡くし叔父折田氏に養われる。慶応4(1868)年鳥羽・伏見の戦で薩軍の6番隊長を務める。西郷隆盛を崇敬していたが,西南戦争では,征討軍第2旅団参謀長として従軍。九州の各地を転戦し,田原坂の戦で勇名を馳せた。明治12(1879)年東京鎮台司令官。16年陸軍卿大山巌 の海外軍事視察に随行。18年陸軍中将に進み,広島鎮台司令官,国防会議議員を歴任。日清戦争では第5師団長を務め平壌を陥落させた。山県有朋第1軍司令官が駐陣中病で召喚されたあと同官に補され連戦連勝,28年陸軍大将に進んだ。37年軍事参議官に補され,日露戦争が起こると62歳で第4軍司令官として満州(中国東北部)に出征し,常に第1軍(黒木軍),第2軍(奥軍)の中堅となって両軍の進撃を援護した。この際,野津のような攻城野戦の猛将で,猪突猛進型の司令官の下で,参謀長を務めることは容易でないと判断した軍中央は女婿の上原勇作少将をそれに当てた。39年1月元帥。陸軍中将鎮雄は兄。<参考文献>桜井忠温編『類聚伝記大日本史』14巻,墨堤隠士『海陸将校の書生時代』,松下芳男『日本軍閥興亡史』

(影山好一郎)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

20世紀日本人名事典 「野津道貫」の解説

野津 道貫
ノヅ ミチツラ

明治期の陸軍大将・元帥,侯爵



生年
天保12年11月3日(1841年)

没年
明治41(1908)年10月18日

出生地
薩摩国鹿児島城下高麗町(鹿児島県)

経歴
藩命を受けて江戸で江川坦庵(太郎左衛門)に砲術を学ぶ。戊辰戦争では6番隊長となり、兄鎮雄と共に鳥羽、東北、箱館に転戦。4年上京して陸軍少佐となり、7年大佐に進み佐賀の乱鎮圧にあたり、10年西南戦争に第2旅団参謀長として従軍。11年少将となり、12年東京鎮台司令官。16年陸軍卿大山巌に随行して渡欧、18年には伊藤博文に従って清国に渡る。同年中将、広島鎮台司令官、21年第5師団長、27年日清戦争では第1軍司令官にとして活躍。28年大将に進み、その後、近衛師団長、東京湾防禦都督、東部都督、教育総監などを歴任。日露戦争では第4軍司令官となり満州派遣軍の中央軍として偉功をたてた。39年元帥、40年侯爵となった。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「野津道貫」の解説

野津道貫 のづ-みちつら

1841-1908 明治時代の軍人。
天保(てんぽう)12年11月3日生まれ。野津鎮雄の弟。もと薩摩(さつま)鹿児島藩士。戊辰(ぼしん)戦争に参加。維新後,陸軍大佐となり,佐賀の乱,西南戦争に従軍。日清(にっしん)戦争では第一軍司令官をつとめ,明治28年大将。教育総監などをへて,日露戦争では第四軍司令官。39年元帥。貴族院議員。明治41年10月18日死去。68歳。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「野津道貫」の解説

野津 道貫 (のづ みちつら)

生年月日:1841年11月3日
明治時代の陸軍軍人。元帥;侯爵
1908年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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