金原田村(読み)かなはらだむら

日本歴史地名大系 「金原田村」の解説

金原田村
かなはらだむら

[現在地名]保原町金原田

柱田はしらだ村の北東に位置し、北西大塚おおつか村。北西部は平坦地であるが、南東部は丘陵地帯。集落は山際および谷地部に散在する。当地は伊具いぐ郡の南半分を中心とした金原保に含まれたともいわれる。同保は元亨三年(一三二三)一一月三日の工藤貞行譲状(遠野南部文書)に「みちの国いくのしやうかなはらの保」とみえ、保内の片山村の地頭代官職が貞行より娘のかいす御前に譲られており、保の地頭は北条氏と考えられる。地頭職などは建武政府によって没収され、元弘四年(一三三四)一月二〇日には保内羽尾村(現宮城県丸森町羽入か)の地頭代職が結城宗広の家臣和知重秀に与えられ(「北畠顕家下文写」有造館本結城古文書写)、同年二月二四日には保地頭職が宗広に与えられ(康永三年九月二四日「結城文書正文目録」伊勢結城文書)、建武二年(一三三五)一〇月五日にはさらに結城三河前司親朝に安堵されている(「後醍醐天皇綸旨」秋田藩家蔵文書)。またこれに先立って同年六月三日には、金原保と伊具郡などの検断職が相馬重胤と武石胤顕に与えられている(「陸奥国宣」相馬文書)。康永三年(一三四四)の段階でも結城氏の知行(前掲目録)、親朝は金原保などを子息朝常に譲っている(康永二年と思われる一一月二八日「結城親朝譲状案」伊勢結城文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報