金岡城跡(読み)かなおかじようあと

日本歴史地名大系 「金岡城跡」の解説

金岡城跡
かなおかじようあと

[現在地名]芸西村和食

和食わじき平野のほぼ中央、標高四〇メートルほどの台地上にあり、南に土佐湾を望む。城は安芸平野とは妙見みようけん(四四八メートル)、香美郡夜須やす(現夜須町)とは手結てい坂で境し、和食平野を制する要衝にある。

暦応二年(一三三九)一二月の大高坂おおだかさ(現高知市)の南北両朝軍の合戦を記した翌三年正月二八日付の佐伯経貞軍忠状(西岡家文書)に、南朝方として名前のみえる和食孫四郎の居城といわれるが、確証はない。室町時代に和食氏が居城していたことは確かで、安芸郡吉良川きらがわ八幡宮(現室戸市)の明応五年(一四九六)の棟札銘(蠧簡集)に和食親忠の名がみえる。戦国時代、和食氏は安芸氏の勢力に押され、天文一六年(一五四七)六月には香美郡槙山まきやま(現物部村)の柳瀬五郎兵衛と盟約を結んだが(「和食親忠書状」柳瀬文書)、安芸氏に滅ぼされた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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