長宗我部氏(読み)ちょうそがべうじ

改訂新版 世界大百科事典 「長宗我部氏」の意味・わかりやすい解説

長宗我部氏 (ちょうそがべうじ)

中世土佐国の豪族。《和名抄》の長岡郡〈宗部〉郷(訓は〈曾我倍〉)の地名を氏としたものであろう(香美郡に住んだ宗我氏を香宗我部氏という)。家譜,軍記物は始祖を秦河勝とするがもとより不明。ただ1554年(天文23)の棟札に〈秦国親〉とあり,戦国期には秦氏を自称している。家紋は鳩酢草。

 土佐長宗我部氏の初代は能俊で,延久(1069-74)あるいは承久(1219-22)ころに信濃より入国したとされるが不明。信能,兼能は元弘の乱,南北朝内乱期に足利氏に属し,大埇(おおそね),吉原,深淵,介良(けら)等の所領を得ている。その後,土佐の守護細川氏の麾下にあって吸江庵寺奉行を兼ね,応仁の乱にも東軍として京都に出陣している(《見聞諸家紋》)。以後戦国期は長岡郡岡豊(おこう)城に拠って国人領主として蟠踞(ばんきよ)し,国守土佐一条氏のほか安芸,香宗我部(あるいは山田),吉良,本山,大平,津野氏などとともに,土佐国〈大名七人〉〈守護七人〉などと呼ばれる。兼序は1508年(永正5。翌年ともいう)大平,本山,吉良,山田などの連合軍に攻められ自刃した。子の国親は幡多郡中村の一条氏に庇護されて成長し,18年岡豊に帰城,勢力を回復して46年(天文15)香宗我部氏,49年山田氏を降し,宿敵本山氏と対決中に病没した。その子元親は父の遺志を継いで土佐一国を統一,85年(天正13)には四国統一をなしとげたが,同年豊臣秀吉の攻撃をうけて降伏(四国征伐),土佐一国のみを安堵された。その子盛親は関ヶ原の戦で西軍に属し,領国を没収され長宗我部家は滅亡。その後,盛親は大坂の陣に再起を図るが敗走して捕らえられ,刑死した。織豊期大名として知られるが,現存する《長宗我部地検帳》《長宗我部元親百箇条》などには戦国期的後進性が顕著にみられる。また,戦国・織豊期大名としての文芸事跡も徴される。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「長宗我部氏」の意味・わかりやすい解説

長宗我部氏
ちょうそがべうじ

「ちょうそかべ」ともよみ、「長曽我部」とも書くが、「長宗我部」が有力。土佐(高知県)の豪族で戦国大名祖先伝承に覆われており、秦(はた)氏とか蘇我(そが)氏の部民とか伝えるが、秦氏説が定着。平安後期~鎌倉前期ごろ秦能俊(よしとし)が信濃(しなの)より土佐国長岡郡宗部郷(そがべごう)(高知県南国(なんこく)市)に移り、子孫は地名をとって長宗我部氏を名のり岡豊城(おこうじょう)を本拠とした。

 7代兼光(かねみつ)のころ広井(ひろい)、中島(なかじま)、野田(のだ)、大黒(おおぐろ)らの庶流を派生し、11代信能(のぶよし)は足利尊氏(あしかがたかうじ)に属して活躍。1345年(興国6・貞和1)ごろ子兼能(かねよし)は吸江庵(ぎゅうこうあん)(高知市五台山)の寺奉行(てらぶぎょう)となり、代々この任を受け継いだ。守護代細川氏の入国後はその下で北朝方として行動した。17代元門(もとかど)は父文兼(ふみかね)の命に背いて内訌(ないこう)が起こり、弟の雄親(かつちか)が18代の家督を継いだ。1508年(永正5)ごろ19代兼序(かねつぐ)は本山(もとやま)、山田、吉良(きら)、大平(おおひら)ら周辺の豪族に攻められて敗死し、子国親(くにちか)は幡多庄(はたのしょう)中村で一条房家(いちじょうふさいえ)に養育された。1518年岡豊城に帰り家を再興したが、1560年(永禄3)宿敵の本山氏と対戦中に死んだ。その子元親(もとちか)は土佐を統一し、四国を平定したが、1585年(天正13)夏豊臣秀吉(とよとみひでよし)に降伏し、土佐一国を安堵(あんど)された。その子盛親(もりちか)は関ヶ原の敗戦で国を追われ、大坂の陣で豊臣方に属して戦ったが捕らわれて斬(き)られた。

[山本 大]

『山本大著『土佐長宗我部氏』(1974・新人物往来社)』


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「長宗我部氏」の意味・わかりやすい解説

長宗我部氏【ちょうそかべうじ】

中世土佐国の豪族。氏名は長岡郡宗部(そがべ)郷(現高知県南国市)を本拠としたことによる。同地の岡豊(おこう)城に拠った。戦国時代に一時衰微するが,国親(くにちか)のとき勢力を回復。子元親は1575年土佐を統一,さらに四国を制覇したが,豊臣秀吉に降伏。その子盛親は関ヶ原の戦大坂の陣で豊臣方に属して滅亡。
→関連項目雪蹊寺野中兼山幡多荘

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「長宗我部氏」の意味・わかりやすい解説

長宗我部氏
ちょうそかべうじ

土佐の豪族,戦国大名。秦 (はた) 河勝の後胤といい,一説では蘇我氏の部民 (べみん) の子孫ともいう。能俊を祖とする。源平の内乱の際,長岡郡宗部 (そかべ) 郷に勢力を張り,この姓を称した。南北朝時代,能俊 11代の孫信能が守護細川氏に属し,応仁の乱で守護が上洛して不在中,土佐7守護の一人となった。文明 10 (1478) 年文兼が一条房家を土佐国司に奏請し,これを背景に威を張ったが,その孫兼序が永正年間 (1504~21) に殺され一時断絶した。元親は国内の諸豪族を滅ぼし,国司一条氏を追い,天正年間 (73~92) 四国全域を征服した。しかし天正 13 (85) 年豊臣秀吉に敗れ土佐一国を安堵 (あんど) されて臣従した。その子盛親は関ヶ原の戦いに豊臣方に属したため所領を没収され,大坂夏の陣 (1615) で斬首されて滅亡した。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「長宗我部氏」の解説

長宗我部氏
ちょうそかべし

長曾我部とも。中世土佐国の豪族・戦国大名。秦河勝(はたのかわかつ)の子孫とも,蘇我氏の部民の出ともいう。鎌倉初期,能俊(よしとし)が長岡郡宗部(そがべ)郷(現,高知県南国市)に住み,子孫が地名から長宗我部氏を称したという。南北朝期には北朝方として活躍。のち土佐国守護細川氏の麾下に入り,吸江庵(ぎゅうこうあん)(現,高知市)の寺奉行となって勢力を伸ばした。永正年間(1504~21)本山氏・大平氏らに攻められ,一時断絶。その後,幡多郡中村(現,四万十市)の一条氏に養育された国親が勢力を回復,ついでその子元親が土佐国を統一した。1585年(天正13)四国を制覇したが,同年豊臣秀吉に敗れて土佐一国の領有を承認されたものの,その子盛親が関ケ原の戦で西軍について敗れ,所領を没収された。さらに大坂の陣で豊臣方に従って敗れ滅亡。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「長宗我部氏」の解説

長宗我部氏
ちょうそかべし

中世,土佐の豪族,戦国大名
「長曽我部」とも書く。秦氏または蘇我氏の部民であった宗我部の子孫という。土佐国長岡郡岡豊 (おこう) の国人で,南北朝時代に守護細川氏に属し,のち土佐七族の雄となる。16世紀初め一時断絶したが,国親の代に勢力を得,その子元親が四国全土を平定。1585年豊臣秀吉に降伏し土佐1国を安堵された。元親の子盛親は関ケ原の戦い(1600)に石田方に味方し所領を没収され,大坂の役で滅亡した。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の長宗我部氏の言及

【郷士】より

…このような郷士のほか,給地がごく少なく身分的にもあまり高いとは思われないもの(延岡藩の小侍や郷足軽),給地・給米のないもの(無足人),軍役を負担しないもの(十津川郷士)など,その性格はさまざまである。 土佐藩における郷士の成立は,1600年(慶長5)新藩主山内氏入封時における,旧国主長宗我部氏家臣団の積極的・消極的抵抗に端を発している。山内氏は彼らを懐柔するため13年に長宗我部氏遺臣の中からいわゆる慶長郷士を登用した。…

【香宗我部氏】より

…土佐国中世の地頭。1193年(建久4)中原秋家が香美郡宗我・深淵両郷(野市町)の地頭職に任ぜられ下向し,主家一条忠頼の子秋通に譲り,郡名を冠した香宗我部氏を名のったのに始まり,以後戦国末に至る。南北朝動乱に当たっては早くより武家方に属し,ついで守護細川氏の被官となり活躍するが,他方西山氏など庶流を分出,その勢力は物部庄(南国市),大忍(おおさと)庄(香我美町)に及ぶ国人に成長した。しかし1526年(大永6)安芸氏に敗れてより家運衰え,56年(弘治2)親秀は家督秀通を殺し,翌年長宗我部国親の三男親泰を養子とし,長宗我部の一門となった。…

【石高制】より


[政治的要因による石高]
 大名の領知高は,検地の施行または指出の提出に基づいて,秀吉(江戸時代では将軍)から個別に出される領知判物・印判状によって確定づけられるが,これと異なった方式で決められることもある。たとえば長宗我部氏の場合,1585年の秀吉の四国攻めに屈服したが,その際に陣参3000人という軍役奉仕を条件に,かろうじて土佐一国を安堵された。9万8000石という土佐の石高は,検地の結果としてではなく,軍役人数に即応する形で定められた点が特筆されよう。…

【土佐国】より

…守護所の所在地は不明だがおそらくは国衙に近い香長(かちよう)平野の東部であろう(室町期の守護代細川氏の居館は香美郡田村にあった)。鎌倉期の土佐の地頭・御家人としては,古くからの在地領主で幕府に本領安堵された夜須,八木,安芸などの諸氏と,治承あるいは承久の乱以後入部したと思われる長宗我部(ちようそがべ)氏香宗我部(こうそがべ)氏,大黒氏などがあり,津野氏も後者の公算が大である。しかしこれら在地領主のうち,鎌倉御家人として《吾妻鏡》にみえるのは先の夜須行宗,源内行景の2名のみであり,しかもともに土佐冠者希義にかかわり,政治史からみる土佐の鎌倉期は少しく精彩を欠いている。…

【土佐国蠧簡集】より

…編者は土佐藩士奥宮正明(?‐1726)。1151年(仁平1)に始まり,長宗我部氏と山内氏の交替期の1600‐03年(慶長5‐8)をもって終わる。全9巻。…

※「長宗我部氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

世界の電気自動車市場

米テスラと低価格EVでシェアを広げる中国大手、比亜迪(BYD)が激しいトップ争いを繰り広げている。英調査会社グローバルデータによると、2023年の世界販売台数は約978万7千台。ガソリン車などを含む...

世界の電気自動車市場の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android