金岡庄(読み)かなおかのしよう

日本歴史地名大系 「金岡庄」の解説

金岡庄
かなおかのしよう

吉井川河口右岸、近世の金岡村を遺称地とし、同村および北接する西大寺村一帯に比定される。成立は一二世紀前半と考えられ、領家職は藤原(勧修寺)惟方、のち奈良興福寺円雄へ伝領された。この間に東西に分割されたらしく、東庄の領家職は興福寺慈信より奈良西大寺末額安がくあん(現奈良県大和郡山市)へ、また東庄の一部領家職が二尊にそん(現京都市右京区)に寄進されている。一五世紀半ばには東西両庄の領家職ともに京都北野社のものとなっている。

正嘉二年(一二五八)三月日の金岡庄領家下文案(額安寺文書)に「金岡東庄」とみえ、平守房に庄内の屋敷畠三段三〇歩が与えられた。永仁四年(一二九六)四月一〇日、惣庄領家である興福寺円雄は、中御門禅尼が東庄の年貢のうちから果物四〇個を毎日二尊院に納入するとしたが、地頭乱妨農民滞納により有名無実となったので、代りに四〇石分の土地を引渡すこととした。ただし済物や万雑公事は惣庄預所の所管とした(「信増奉書案」二尊院文書)。なお大炊助連臣が東庄供料米として毎年二五貫を納入すると契約している(年未詳四月二二日「大炊助連臣請文」同文書)

嘉元四年(一三〇六)の昭慶門院領目録(竹内文平氏旧蔵文書)には鳥羽天皇御願寺安楽寿あんらくじゆ(現京都市伏見区)興善こうぜん院領とあり、興善院が藤原(勧修寺)惟方より一二世紀前半に領家職を留保して寄進されたと推定される。延慶三年(一三一〇)一二月二一日、興福寺菩提院慈信は別相伝の地東庄を相伝文書を添えて額安寺に寄進した(「慈信寄進状」額安寺文書)。元亨二年(一三二二)には東庄の惣領地頭藤覚智と領家額安寺との間に和与中分が成立し、実検田畠取帳が作成され、東庄の境は「東角御前限後 南限海山陰 西限非礼道祖 北限高橋」であった(「西大寺境内絵図」西大寺蔵)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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