日本歴史地名大系 「金成村」の解説 金成村かなりむら 福島県:いわき市旧磐城市地区金成村[現在地名]いわき市小名浜(おなはま)金成(かなり)矢田(やだ)川中流右岸にあり、南は林城(りんじよう)村・岩出(いわで)村、西は下船尾(しもふなお)村、北は三沢(みさわ)村、東は飯田(いいだ)村・米田(こもだ)村。建長五年(一二五三)二月一一日の関東下知状(岡本元朝家蔵文書、以下断らない限りすべて同文書)に皮成村とみえ、岩崎尼妙法(岡本親元の母)と岩崎隆泰(妙法の兄弟か)との間で当村をめぐって相論があったが、和解が成立している。当村はもともと岩崎氏の所領で、妙法がその地頭職を譲られて岡本氏に嫁したのであろう。したがって近辺には岩崎氏の所領が存在し、相論などが繰返される。なおこの後妙法は当村を子の岡本親元に譲り、以後岡本氏の所領となった。岡本氏は下野小山氏一族といわれ、親元の代から岡本を称している(岡本系図)。弘安三年(一二八〇)四月一五日親元から当村地頭職が子息藤原祐親に、また当村内の田在家が祐親の舎弟隆重に譲られ、同八年四月二三日幕府より安堵を受けている(将軍家下文など)。同九年岩崎隆綱が当村名田をめぐって岡本祐親(資親)を訴え、祐親に幕府法廷への召喚状が出された。しかし祐親がその請取を拒否したとして、訴人隆綱は召文違背の咎で当村名田を没収し、自らに拝領されんことを主張した。しかし、隆綱の提出した延応二年(一二四〇)の下知状では、両人の所領は別々であることが明白であったため、隆綱には与えられず、祐親の弟宅部家信(岡本系図)に与えられた。弘安一〇年一二月祐親跡を拝領した家信が現地の状況を知らないため、誤って隆重分の当村内の名田をも含めようとしたため、隆重と相論になったが、正応元年(一二八八)七月一〇日和解が成立している(岡本隆重・宅部家信連署和与状)。 金成村かんなりむら 宮城県:栗原郡金成町金成村[現在地名]金成町 上町(かんまち)・中町(なかまち)・新町(しんまち)・上町東裏(かんまちひがしうら)・上町西裏(かんまちにしうら)・中町西裏(なかまちにしうら)・新町裏(しんまちうら)・四ッ屋敷(よつやしき)・翁留(おきなどめ)・入生田(いりゆうだ)・奉公田(ほうこうだ)・台畑(だいはた)・熊(くま)ノ下(した)・髪長(かみなが)・翁沢(おきなざわ)・日向田(ひむかいだ)・干谷沢(ほしやざわ)・長根沢(ながねざわ)・大久保沢(おおくぼざわ)小迫(おばさま)村の東、三迫(さんのはさま)川左岸に広がる金成耕土の中心に立地する。奥州街道の宿駅で、南西の沢辺(さわべ)宿、北東の有壁(ありかべ)宿に継立てた。「安永風土記」に古くは金田(かねた)庄のうちの金田里という郷村名であったとあり、当村北の畑(はた)村に住した炭焼藤太が黄金を掘出し京都に献じたところ、久安年中(一一四五―五一)金生村という村名を与えられた。のち神成村、さらに金成村に変わったという。また畑村・小迫村と合せ一村であったが、のち三村に分村し、当村はさらに向金成村・北金成村と分れた。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by