金沢実政(読み)かねさわ・さねまさ

朝日日本歴史人物事典 「金沢実政」の解説

金沢実政

没年:乾元1.12.7(1302.12.26)
生年:建長1(1249)
鎌倉中期の武将。父は金沢(北条)実時。上総介。文永10(1273)年前後に兄・顕時の豊前国守護補任で守護代として下向したようだが,建治1(1275)年に異国征討の意図で九州に下向した。弘安6(1283)年長門国守護,正応1(1288)年以降は長門・周防両国守護。永仁4(1296)年に鎮西探題となる。以後,鎮西探題は前代の蒙古防備から蒙古襲来後の鎮西訴訟を中心にすえ,鎮西評定衆・鎮西引付衆が整備され鎮西の所務沙汰の裁判権を管轄する機関として確定した。父・実時が実政に与えた置文は,得宗周辺の人々の意識を知る家訓として著名である。正安3(1301)年に出家。所領には豊前国規矩郡(北九州市)が知られる。<参考文献>関靖金沢文庫研究』,相田二郎『蒙古襲来の研究』,佐藤進一『鎌倉幕府訴訟制度の研究』『鎌倉幕府守護制度の研究』,川添昭二「鎮西探題北条実政について」(『金沢文庫研究』56・57・58号),村井章介「蒙古襲来と鎮西探題の成立」(『アジアのなかの中世日本』)

(福島金治)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「金沢実政」の意味・わかりやすい解説

金沢実政(かねさわさねまさ)
かねさわさねまさ
(1249―1302)

鎌倉時代の鎮西探題(ちんぜいたんだい)。金沢実時(さねとき)の子。上総介(かずさのすけ)。従(じゅ)五位上。1279年(弘安2)豊前(ぶぜん)守護代となり、89年(正応2)ごろ長門(ながと)探題に就任し、周防(すおう)・長門両国守護となる。96年(永仁4)九州に転じ実質上の初代鎮西探題として、九州の訴訟制度を整備し、九州管内の民事裁判にあたった。なお、実政以後、肥前守護は鎮西探題の兼帯するところとなった。北条氏の九州支配の展開は実政の鎮西探題就任を重要な画期としている。

[上田純一]


金沢実政(かなざわさねまさ)
かなざわさねまさ

金沢実政

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「金沢実政」の解説

金沢実政 かねざわ-さねまさ

1249-1302 鎌倉時代の武将。
建長元年生まれ。金沢(北条)実時の子。建治(けんじ)元年蒙古襲来にそなえて鎮西(ちんぜい)(九州)に派遣され,のち長門(ながと),周防(すおう)の守護となる。永仁(えいにん)4年鎮西探題に就任し,肥前守護も兼任。乾元(けんげん)元年12月7日死去。54歳。通称は越後(えちご)六郎

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