長門探題(読み)ながとたんだい

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

長門探題
ながとたんだい

鎌倉時代,モンゴルの襲来にそなえて,長門,周防防衛のために設けられた幕府の出先機関で,長門周防探題ともいわれている。建治2 (1276) 年執権北条氏の一族宗頼を長門,周防両国守護として派遣し,敵襲の防衛にあたらせたのが,事実上の初めで,以後北条一族がその地位を相伝し,諸国の守護以上の強力な権限を与えられた。探題称呼は時直在職 (1323~33) のときにみえる。元弘3=正慶2 (1333) 年5月時直は後醍醐天皇にくだり,長門探題は滅びた。

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百科事典マイペディアの解説

長門探題【ながとたんだい】

鎌倉幕府の職名。中国探題とも。文永の役後,幕府は蒙古(もうこ)襲来に備え長門・周防(すおう)両国の守護に北条氏一門を任命したのがはじまり。のち両国守護を同一人に兼任させ,探題の名を与えて一般守護より強大な権限を付与した。→文永・弘安の役
→関連項目長門国

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世界大百科事典 第2版の解説

ながとたんだい【長門探題】

鎌倉幕府の地方統治機関。長門周防探題,中国探題ともよばれた。モンゴル襲来に備えて,鎌倉幕府異国警固の要地長門国の防備を強化した。それを指揮する長門守護には,1276年(建治2)二階堂氏にかわって北条時宗の弟宗頼が下向した。宗頼の死後,子の兼時が守護職をつぐが,89年(正応2)ころより北条氏一門の金沢実政(かねさわさねまさ)が長門・周防両国守護に補任された。これ以降,防長両国守護は同一人の兼任となった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

長門探題
ながとたんだい

鎌倉後期、蒙古(もうこ)(元(げん))の再来に備え、長門国(山口県)に設置された地方機関。長門周防(すおう)探題、中国探題とも称する。1276年(建治2)北条宗頼(むねより)が、沿海防備の必要上、とくに強力な軍事指揮権を付与されて長門守護に就任したことに始まる。以後長門守護には北条氏一門が代々就任するが、1289年(正応2)ごろ金沢実政(かねさわさねまさ)が着任している。実政のころより周防守護の兼帯が行われるようになり、以後、時仲、時村、(ひろとき)、時直へと及んだ。実政は1296年(永仁4)鎮西探題(ちんぜいたんだい)へ転じたが、このころからはその権能も諸国一般の守護以上に強大化され、時仲の在職中、鎮西探題に準じ長門探題の称も定着した。1333年(元弘3・正慶2)鎌倉幕府滅亡に際し事実上消滅した。なお、南北朝期、足利直冬(あしかがただふゆ)が長門で一時中国探題とよばれたこともある。[上田純一]

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精選版 日本国語大辞典の解説

ながと‐たんだい【長門探題】

〘名〙 鎌倉幕府後期の職名。長門守護の別称。建治二年(一二七六)蒙古軍の来襲に備えて長門守護に北条宗頼が任命されて以後、北条氏の一族が就任し、後に周防(すおう)守護も兼任して他国の守護より強い権限が認められた。探題の称は鎮西探題に準じたもの。ただし、鎌倉幕府が正式に長門探題と称した史料はないようである。長門周防探題。〔武家名目抄(19C中か)〕

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世界大百科事典内の長門探題の言及

【長門国】より

…長門北岸の要所には石築地(いしついじ)(いわゆる元寇防塁)が築かれ,この任務は山陰道へも賦課された。このような権限集中により,これ以後の長門・周防守護は長門周防探題,長門探題とも呼ばれ,北条一門が任命されるポストになった。最後の長門探題北条時直は幕府滅亡後九州で降参した。…

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