鎌倉幕府の地方統治機関。長門周防探題,中国探題ともよばれた。モンゴル襲来に備えて,鎌倉幕府は異国警固の要地長門国の防備を強化した。それを指揮する長門守護には,1276年(建治2)二階堂氏にかわって北条時宗の弟宗頼が下向した。宗頼の死後,子の兼時が守護職をつぐが,89年(正応2)ころより北条氏一門の金沢実政(かねさわさねまさ)が長門・周防両国守護に補任された。これ以降,防長両国守護は同一人の兼任となった。両国守護は御家人指揮権や裁判権において一般の守護より強い権限を持ち,六波羅探題の管轄から逸脱して長門探題と称されるようになった。実政の鎮西探題就任後,守護には北条時仲が補任され,のち北条時村にかわった。1305年(嘉元3)の時村誅伐後,孫の煕時(ひろとき)が補任された。その後,北条時仲が再任され,つづいて北条時直が補任された。1333年(元弘3)元弘の乱がおこると,時直は六波羅探題を支援しようとしたが,六波羅,鎮西両探題のあいつぐ滅亡を聞き,同年5月少弐,島津両氏に下り滅亡した。
執筆者:佐伯 弘次
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鎌倉後期、蒙古(もうこ)(元(げん))の再来に備え、長門国(山口県)に設置された地方機関。長門周防(すおう)探題、中国探題とも称する。1276年(建治2)北条宗頼(むねより)が、沿海防備の必要上、とくに強力な軍事指揮権を付与されて長門守護に就任したことに始まる。以後長門守護には北条氏一門が代々就任するが、1289年(正応2)ごろ金沢実政(かねさわさねまさ)が着任している。実政のころより周防守護の兼帯が行われるようになり、以後、時仲、時村、凞時(ひろとき)、時直へと及んだ。実政は1296年(永仁4)鎮西探題(ちんぜいたんだい)へ転じたが、このころからはその権能も諸国一般の守護以上に強大化され、時仲の在職中、鎮西探題に準じ長門探題の称も定着した。1333年(元弘3・正慶2)鎌倉幕府滅亡に際し事実上消滅した。なお、南北朝期、足利直冬(あしかがただふゆ)が長門で一時中国探題とよばれたこともある。
[上田純一]
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鎌倉末期に長門・周防両国の守護を兼務した北条時直に対する「忽那(くつな)文書」「太平記」などの表現。探題の呼称は,時直の権限が他国守護より強かったためと推測される。長門国は元寇に対する防衛のうえで九州につぐ重要地域であったためであろう。
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…長門北岸の要所には石築地(いしついじ)(いわゆる元寇防塁)が築かれ,この任務は山陰道へも賦課された。このような権限集中により,これ以後の長門・周防守護は長門周防探題,長門探題とも呼ばれ,北条一門が任命されるポストになった。最後の長門探題北条時直は幕府滅亡後九州で降参した。…
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