金沢新田(読み)かなざわしんでん

日本歴史地名大系 「金沢新田」の解説

金沢新田
かなざわしんでん

[現在地名]徳島市金沢一―二丁目

吉野川(別宮川)河口部右岸の三角洲に位置。南と西を沖洲おきのす川が流れ、東は中新田。新田の名称は、明治初年、新田を所有した藍商金沢仁兵衛の名にちなむというが、万延元年(一八六〇)に吉野川河口の新田名主・地主七人が板野勝浦郡代に提出した歎願覚(川内村史)に金沢新田、松浦晋左衛門の名がみえ、金沢氏の所有以前から金沢新田と称していたことがうかがえる。郡村誌に「元吉野川尻寄洲萱生地タリ、文政二年本郡池谷村松浦九平開拓ニ従事シ、天保三年功成り金沢新田ト名付く」とあり、天保三年(一八三二)に金沢新田が成立したとされているが、旧高旧領取調帳にも新田名が確認できず、天保三年に成立したかどうかは不明である。

金沢新田
かなざわしんでん

[現在地名]加古川市金沢町

新野辺しのべ村地先の砂洲地にある。天保五年(一八三四)砂部いさべ村金沢九郎兵衛と高砂の新屋嘉兵衛が願人、太郎太夫たろうだゆう(現小野市)近藤仁右衛門が銀主となり開発願が出された。普請入用高は銀八五四貫余で、代銀を支払い池田いけだ村地先の一銭講いつせんこう林の地を土取に使用した。

金沢新田
かなざわしんでん

[現在地名]新津市金沢町一―四丁目・ひがし

能代のうだい川右岸の低地に位置し、西は新津村。元和九年(一六二三)の開発と伝えられるが、応永一八年(一四一一)八月一九日の居多神社社領注文(居多神社文書)に奥郡分として「蒲原郡内 一町二反金沢西得安」とあり、当地のこととも考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報