新津村
にいつむら
[現在地名]新津市本町一―四丁目・新町一―三丁目・日宝町・山谷町一―三丁目・金沢町一―二丁目・滝谷本町・善道町一―二丁目・下興野町・南町・北上三丁目・新栄町・吉岡町・新津
能代川両岸の氾濫原に位置し、東は柄目木村、西は古田新田、南は田家村。「吾妻鏡」建仁元年(一二〇一)三月四日条に城四郎長茂の伴類として、新津四郎の名がみえる。建武三年(一三三六)一一月一八日の羽黒義成軍忠状写(「奥山庄史料」所収中条文書)には「九月二日、引籠于金津保新津城」とあり、北朝方の加治景綱に率いられた軍勢が立籠り、南朝方と合戦している。慶長三年(一五九八)頃の新発田藩の御領内高付帳(新発田市史資料)には新津新町村として三二六石四斗余が記される。
新津村
あらつむら
[現在地名]苅田町新津・新津一―四丁目・下新津・小波瀬一―二丁目
尾倉村の南、与原村の南西に位置し、高城山の南東端丘陵上に集落が形成されている。東部を中津街道が通る。元和八年人畜改帳に村名がみえ、高九八二石余、家数一三三・人数二四六(うち百姓一九・名子一一)、牛二四・馬八。郷村高帳では高一千一八四石余、うち新田高二〇一石余。江戸時代後期、上新津と中津街道沿いの下新津の二村に分れ、明和四年(一七六七)には尾倉村の岡崎宗正が与原・下新津の両村庄屋を兼帯していた(岡崎家文書)。
新津村
しんづむら
[現在地名]養父町新津
玉見村の西、大屋川の流域に位置し、西は宮垣村(現大屋町)。永禄三年(一五六〇)一一月二一日付で三方大蔵丞正秀が定めた三方郷東西堺注文(三方文書)のなかに「一、軽部・新津村堺東ハ中うと 北ハ阿弥陀堂 一、新津村・宮垣村堺東ハ平度 北ハいとつ谷」と記される。当村は三方郷の東端で軽部庄と境を接していた。近世の領主の変遷は玉見村に同じ。慶長一八年(一六一三)の小出吉英所領目録(金井文書)に村名がみえ、高六三石余。宝永三年(一七〇六)の出石藩所替書類によると旧高六三石余・改出高一〇九石余。
新津村
しんづむら
[現在地名]白川町坂ノ東 新津
飛騨川右岸の河岸段丘上の山麓に位置する。北は村君村、西は小川村。坂ノ東枝村六ヵ村の一つで、新津組とも称した。地内の和泉神社の大永二年(一五二二)の棟札に「坂東村新津村」とある。元禄郷帳では高七四石余。「濃州徇行記」では高八四石余、田畑八町三反余、家数二六・人数一四〇余、馬五。新津番所は元禄二年(一六八九)の開設。明治五年(一八七二)の村明細帳では田高三一石余・畑高五二石余・山高八斗余。
新津村
しんづむら
[現在地名]浜松市新津町
茄子一色村の西に位置。松平忠頼領郷村帳では高一一七石余、畑一五町八反余、うち川成三石、ほか真南寺(現臨済宗方広寺派)領三石・阿弥陀領六斗。慶長一五年(一六一〇)の水野重仲知行割帳に村名がみえる。領主の変遷は向宿村と同じ。延宝(一六七三―八一)頃の青山氏領分絵図では本田一六六石余・新田九石余・百姓林二反余。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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