亀山(読み)かめやま

精選版 日本国語大辞典 「亀山」の意味・読み・例文・類語

かめ‐やま【亀山】

[1]
[一] 中国の東の海にあって神仙が住むとされ、大亀が背負っているといわれる蓬莱山(ほうらいざん)の異称。亀の尾の山。亀の上の山。
貫之集(945頃)五「かめやまのかげをうつしてゆく水にこぎくる舟はいくよへぬらん」
[二] 三重県北部、鈴鹿山脈の東の地名。江戸時代、石川氏五万石の城下町。また、東海道五十三駅の宿駅の一つ。茶・美術蝋燭(ろうそく)で有名。昭和二九年(一九五四市制
浄瑠璃出世景清(1685)道行「庄野につづくかめ山は、たがためながきよろづよと」
[三] 京都市右京区嵯峨天龍寺の西にある山。後嵯峨・亀山両院などの離宮があった。大堰(おおい)川に臨み、嵐山に対する。亀の尾の山。嵯峨の山。
※寛和二年内裏歌合(986)「かめやまの子の日の小松ひき見つつ君がためにと祈る今日かな〈藤原明理〉」
[2] 〘名〙 「かめやま(亀山)のお化け①」の略。
※雑俳・柳多留‐一〇五(1828)「化けそふな親仁亀山うってゐる」

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デジタル大辞泉 「亀山」の意味・読み・例文・類語

かめ‐やま【亀山】

京都市右京区の嵯峨にある山。大堰おおいに臨み、嵐山に対する。嵯峨天皇後嵯峨天皇亀山上皇の離宮の亀山殿があった。
三重県北部の市。もと東海道宿場町、石川氏の城下町。緑茶紅茶や美術蝋燭ろうそくを産する。平成17年(2005)1月に関町合併。人口5.1万(2010)。
亀の上の山」に同じ。

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日本歴史地名大系 「亀山」の解説

亀山
かめやま

小倉おぐら山東南の尾、天龍てんりゆう寺の後山をいう。山の形が亀甲に似ているところからの称で、亀の尾山ともいう。

歌枕として「能因歌枕」「五代集歌枕」「和歌初学抄」「八雲御抄」「和歌色葉」に挙げられ、「初学抄」が「イハヒニヨムベシ」と注するごとく、亀の名から長寿を祈祝する歌に詠まれることが多い。

<資料は省略されています>

ここに山荘雄蔵殿おぐらどのを営んで退隠した兼明親王(醍醐天皇皇子、前中書王とよばれる)は、その「菟裘賦」(本朝文粋)に「余亀山の下に、聊かに幽居を卜ひて、官をり身を休め、老を此に終へなむと欲ひき。草堂の漸くに成るに逮びて、執政者に枉げて陥れらる。君昏く臣諛ひて、うたふるに処無し」と記している。

亀山
かめやま

[現在地名]姫路市亀山

飾西しきさい郡に所属。飯田いいだ村の南、船場せんば川と野田のだ川の間に位置する。東は飾東しきとう郡亀山町。天正三年(一五七五)の近村めぐり一歩記(智恵袋)によると、地名の由来は永延二年(九八八)三足の亀が出たことによるという。「播磨国風土記餝磨しかま伊和いわ里の条にみえる一四丘の一つ「みか丘」は当地にあったとする説がある。船場本徳寺縁起(姫路船場別院本徳寺蔵)などによれば、天正八年(一五八〇)羽柴秀吉英賀あが城を攻めたとき英賀御堂(英賀本徳寺)に「除火」の措置をとって寺領三〇〇石を寄進し、同一〇年亀山に寺地を与えられて亀山本徳寺が建立された。

亀山
かめやま

おお島の北端近くにあり、東方唐桑からくわ半島の早馬はやま山と狭い瀬戸を隔てて対峙する。標高二三五メートル。近世にはかめもり山ともいった。周囲に高山がなく、山頂からは眺望が大いに開けており、北は盛岡領五葉ごよう(現岩手県釜石市)、あるいは気仙郡綾里りようり崎・唐丹とうに(現岩手県気仙郡三陸町)、南は牡鹿おしか金華山きんかさんえの島、桃生ものう名振なぶり(現雄勝町)を見通すことができる。西方には北上山地がはしっており、磐井いわい室根むろね(現岩手県東磐井郡室根村)を間近く見ることができる。亀山には太田おおた神社(現大島神社)・愛宕神社の二社があり、両社とも修験や寺院とは関係なしに、村人自体が別当として祀っている(大島村安永風土記)

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百科事典マイペディア 「亀山」の意味・わかりやすい解説

亀山【かめやま】

丹波国桑田郡に近世初期に成立した城下町。現京都府亀岡市の市街地部にあたる。1575年から70年代の末にかけて,丹波国は織田信長方の明智光秀によって平定され,光秀は1579年ころ丹波支配のため当地に亀山城を築造,同時に城下町が形成された。城は大堰(おおい)川右岸の河岸段丘上にある丘(亀山)を利用して築かれた平山城で,城下町は城の南部から北西方向に造られた。本能寺の変後は羽柴秀吉(豊臣秀吉)の支配下に置かれ,羽柴秀勝,小早川秀秋,前田玄以(げんい)らが代官あるいは城主として在城。前田玄以は関ヶ原の戦後も徳川家康から知行安堵され(5万石),玄以没後は次男茂勝が継いだが,間もなく転封となり,1609年岡部長盛が入封(3万2000石,のち3万4000石),亀山藩を立藩。以後1749年までの間に松平(大給)氏2代(2万2200石),菅沼氏2代(4万1000石,のち3万8000石),松平(藤井)氏3代(3万8000石),久世重之(5万石),井上正岑(4万7000石),青山氏3代(5万石)と藩主が替わり,1748年からは松平(形原)氏(5万石)が廃藩置県まで在城した。城下町は近隣の村々から百姓を移住させて形成したと伝え,城下に住みながら出身の村々に田畑を保有して農業を営む者が多かったという。そのため町年寄(3名。城下町全体を管轄),肝煎(各町に1名)のほか町々の属する村に置かれた庄屋の支配も受けた。1841年には町数20,総戸数1225。1869年版籍奉還に際して,伊勢亀山藩との混同を避けるため藩名が亀岡藩と改称され,同時に城下町も亀岡と呼ばれるようになり,1889年亀岡町が成立。1955年亀岡市となる。
→関連項目福知山

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世界大百科事典 第2版 「亀山」の意味・わかりやすい解説

かめやま【亀山】

丹波国桑田郡の城下町(現,京都府亀岡市)。口丹波の交通の要地。地名の起りは1579年(天正7)明智光秀が築城して亀山城と名付けたことによる。城郭は大堰川右岸の台地にあり,城下町はその南部に建設されたが,人家を移住させた柏原(かせばら),三宅,古世などの9ヵ村を母体に,惣外堀内に取り込んだ城下町16町と城下外の4町で構成された。町々には町役として肝煎がおり,町全体のまとめ役には町年寄3名があたった。また町々の属する村には1~2名の庄屋がおり二重の組織が存在したようである。

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歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典 「亀山」の解説

亀山
(通称)
かめやま

歌舞伎・浄瑠璃の外題。
元の外題
亀山仇討
初演
享保13.11(大坂・姉川新四郎座)

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事典・日本の観光資源 「亀山」の解説

亀山

(福井県大野市)
ふるさと福井の自然100選」指定の観光名所。

亀山

(三重県亀山市)
東海道五十三次」指定の観光名所。

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世界大百科事典内の亀山の言及

【嵐山】より

…平安時代から紅葉の名所として知られ,三船祭のような貴族の船遊びの場所でもあった。13世紀に後嵯峨上皇が亀山(小倉山南東の尾根)の仙洞に吉野の桜を移植してからは桜の名所としても有名になった。後嵯峨上皇の亀山殿の位置には,足利尊氏によって天竜寺が建立されているが,同寺開山の夢窓疎石作という庭園は,背後の亀山と嵐山を借景としている。…

【小倉山】より

…標高295m。古生層からなり,南東に長くのびた標高70~80mの尾根を亀山(亀の尾山)という。嵯峨野の西端を画し,西側と南側は保津川が深い峡谷(保津峡)を形成している。…

※「亀山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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