三重県北部の市。2005年1月旧亀山市と関(せき)町が合体して成立した。人口5万1023(2010)。
亀山市東部の旧市。1954年亀山町と昼生(ひるお),井田川,川崎,野登(ののぼり)の4村が合体,市制。人口3万9334(2000)。市域は鈴鹿山脈の南東部から伊勢平野にかけての台地に広がり,中心市街地は鈴鹿川左岸の段丘上にある。江戸時代までは城下町,東海道の宿駅として発展したが,1890年関西鉄道(現,JR関西本線)が開通し,翌91年には参宮鉄道(現,JR紀勢本線)が開通して両鉄道の分岐点となり,鉄道の街としての性格を強めた。その後国道1号線の整備や名阪国道(国道25号線)の開通(1965)によって,工業団地や住宅団地の開発もすすんでいる。東名阪自動車道のインターチェンジがある。茶(緑茶,紅茶),生糸,輸出用美術ろうそくなどが在来の特産物である。亀山城跡には天守台石垣や多聞櫓が,また城跡北西の野村には旧東海道の一里塚(史)が残っている。
執筆者:成田 孝三
伊勢国の城下町,宿場町。亀山の名称は,丘陵神山がなまったとも,石亀を放った所であるためともいわれるが,歴史は13世紀,関実忠が同地に築城して亀山城と称したことに始まる。1590年(天正18)関氏が移封,岡本宗憲が入封して新城を築いた。その後の藩主交替は松平氏,三宅氏,本多氏,石川氏,板倉氏などが幾度も入れ替わり,1744年(延享1)石川総慶が入封して幕末に至る。ほぼ6万石の譜代大名で,亀山はその拠点として,東西4町20間,南北3町の城郭,300戸以上の侍屋敷があり,町方の者は西町,東町,横町,鍋町,本新町,西新町,茶屋町などに居住した。亀山は同時に幕府の道中奉行の支配下にある東海道の宿駅で,天保期(1830-44)には本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠屋21軒があった。特産で知られるのは亀山鐔(つば)(間(はざま)鐔)で,参勤交代の際に通過する諸国の武士が買い入れた。また大市と呼ばれる市が有名であった。
執筆者:深谷 克己
亀山市西部の旧町。旧鈴鹿郡所属。人口7272(2000)。鈴鹿山脈と布引山地の境に位置し,鈴鹿峠に源を発する鈴鹿川と支流加太(かぶと)川が町内を東流する。古くからの交通・軍事の要衝で,古代には三関の一つである鈴鹿関が設置されていた。近世には東海道の宿駅として関・坂下(さかのした)両宿が栄え,現在も関は宿場町の遺構をよく残している。1890年関西鉄道(現,関西本線)開通後一時衰退したが,国道1号線はじめ名阪国道(国道25号線),東名阪自動車道から接続する伊勢自動車道(関ジャンクション)が整備され,再び交通の要衝となった。基幹産業は農業で,米作を中心に野菜・花木栽培が行われるが,林業も行われ,製材工場が多い。鈴鹿国定公園に含まれ,地蔵院などの古寺や筆捨山などの名所があり,中世の領主関氏の館であった正法寺山荘跡は国の史跡に指定されている。
執筆者:上田 雅子
伊勢国鈴鹿郡に置かれた東海道の宿駅。亀山城下より1里半,鈴鹿山麓の坂下宿を経て近江国に至る。参宮街道へも追分があって通じていた。江戸往来がふえるにつれて発達し,1843年(天保14)ころの町並みの長さは15町13間,民家632軒,本陣2,脇本陣2,宿屋42軒であった。亀山藩領に属し,木崎(こざき),中町,新所からなり,伝馬の助郷村は15村あった。コンニャク,弓弦,火縄などを産した。
執筆者:深谷 克己
丹波国桑田郡の城下町(現,京都府亀岡市)。口丹波の交通の要地。地名の起りは1579年(天正7)明智光秀が築城して亀山城と名付けたことによる。城郭は大堰川右岸の台地にあり,城下町はその南部に建設されたが,人家を移住させた柏原(かせばら),三宅,古世などの9ヵ村を母体に,惣外堀内に取り込んだ城下町16町と城下外の4町で構成された。町々には町役として肝煎がおり,町全体のまとめ役には町年寄3名があたった。また町々の属する村には1~2名の庄屋がおり二重の組織が存在したようである。1841年(天保12)ころには城下9ヵ村の戸数1225で1戸当り5人とみて約6000人,それに武家人口約3000人を加えると9000人ほどが生活していたことになる。上矢田村鍬山神社の祭礼は1681年(天和1)に復興され,藩主の保護を得て年々盛んとなり,行列が城中まで入り,かき山引山は町を練り回るなど,口丹波一の祭りとしてにぎわったが,現在は亀岡祭(10月24~25日)として知られる。特産物としてマツタケ,栗,サンショウ,タバコ,砥石などがある。1869年(明治2)版籍奉還のとき,伊勢亀山との混同を避けるため亀岡と改称。
→亀山藩
執筆者:野田 只夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
歌枕として「能因歌枕」「五代集歌枕」「和歌初学抄」「八雲御抄」「和歌色葉」に挙げられ、「初学抄」が「イハヒニヨムベシ」と注するごとく、亀の名から長寿を祈祝する歌に詠まれることが多い。
ここに山荘
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三重県北部、鈴鹿(すずか)山脈東麓(ろく)にある市。1954年(昭和29)亀山町と昼生(ひるお)、井田川(いだがわ)、川崎、野登(ののぼり)の4村が合併、市制を施行して成立。2005年(平成17)関町を合併、市域が西に大きく広がった。大部分は山地と丘陵で、東流する鈴鹿川と安楽(あんらく)川が山麓を離れて伊勢(いせ)平野に出る所に平地が開ける。市街地は鈴鹿川左岸の河岸段丘上に旧東海道に沿って細長く発達している。JR関西本線と紀勢本線の分岐点であり、また国道1号、名阪国道、25号、306号が通じ、東名阪自動車道と新名神高速道路が亀山ジャンクションで、東名阪自動車道と伊勢自動車道が関ジャンクションでつながる交通の要地である。
古代から開発の進んだ地で、記紀にみえる日本武尊(やまとたけるのみこと)の陵墓に指定される能褒野(のぼの)前方後円墳など県下でも古墳の多い所である。城下町としては、1265年(文永2)関実忠(さねただ)が若山に丹陵(たんりょう)城(亀山古城)を築いてから始まり、300余年にわたって関一族の本拠であった。現在の城と城下町は、1590年(天正18)に豊臣(とよとみ)秀吉に封じられた岡本宗憲(むねのり)が旧城の南東の地に新たに構築したものである。1604年(慶長9)関一政により亀山藩が立藩、その後藩主はたびたびかわったが、いまも残る多聞櫓(たもんやぐら)は正保(しょうほう)年間(1644~1648)に建築された武器庫で県の史跡に指定されている。現市域では江戸時代初期から亀山、関、坂下(さかした)の3宿が東海道の宿駅としても整備され、1843年(天保14)の記録によると、亀山宿では人口1549、家数567、旅籠(はたご)21を数えた。市の産業には、緑茶、紅茶のほか、美術ろうそくとして知られる「亀山ろうそく」がある。名阪国道の開通に伴い工業化が進み、名阪亀山関工業団地、亀山・関テクノヒルズなどの工業団地が造成されて、シャープの工場などの先端技術企業が進出している。東海道の野村一里塚は国指定史跡で、慈恩寺の阿弥陀如来(あみだにょらい)立像は平安前期の作で国の重要文化財に指定されている。関町新所(せきちょうしんじょ)地蔵院の本堂および愛染堂・鐘楼も国指定重要文化財。面積191.04平方キロメートル、人口4万9835(2020)。
[伊藤達雄]
『『亀山のあゆみ』(1975・亀山市)』
出典 日外アソシエーツ「歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典」歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…国道55号線が通り,住宅開発も進み,高知市のベッドタウン化しつつある。亀山は応天門の変に連座して土佐に流された紀夏井(きのなつい)の邸跡と伝え,近くには彼が両親の菩提のために建立したという父養(ぶよう)寺,母代(ぼだい)寺の伝承地がある。また四国八十八ヵ所28番札所の大日寺がある。…
…汁粉,ぜんざい,いずれもシソの実の塩漬などを添えて供する。以上の呼称は関東におけるもので,関西では御膳汁粉をたんに汁粉,田舎汁粉をぜんざいと呼び,関東のぜんざいは亀山と呼ばれる。懐中汁粉は,さらしあんに砂糖,塩,デンプン,ぎゅうひなどを加えたもので,熱湯を注ぐだけで食べられるインスタント食品である。…
…平安時代から紅葉の名所として知られ,三船祭のような貴族の船遊びの場所でもあった。13世紀に後嵯峨上皇が亀山(小倉山南東の尾根)の仙洞に吉野の桜を移植してからは桜の名所としても有名になった。後嵯峨上皇の亀山殿の位置には,足利尊氏によって天竜寺が建立されているが,同寺開山の夢窓疎石作という庭園は,背後の亀山と嵐山を借景としている。…
…標高295m。古生層からなり,南東に長くのびた標高70~80mの尾根を亀山(亀の尾山)という。嵯峨野の西端を画し,西側と南側は保津川が深い峡谷(保津峡)を形成している。…
※「亀山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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