駅家郷
うまやごう
「和名抄」東急本に「
家」とあり、訓はない。高山寺本に当郷の記載はない。「延喜式」兵部省に山陽道の津高駅と河辺駅の中間に「津
駅」が記されており、同駅を中心とした郷であることは確実である。同駅の所在について従来から重視されてきたのは「今昔物語集」巻一七第四話である。「津郡宮ノ郷」に本拠をもつ富豪の藤原文時の従者の一人が、主人に従わなかったため「津坂」で殺されることになるが、一心に地蔵菩薩を念じて救われたという話である。
駅家郷
うまやごう
「和名抄」高山寺本にはみえず、東急本に「
家」と記すが、訓は欠く。郡名を冠する名草駅の存在した郷であろう。「続風土記」「大日本地名辞書」ともに、近世に宿駅のあった現和歌山市山口地区に比定する。「日本後紀」延暦二三年(八〇四)一〇月条に桓武天皇の紀伊行幸の帰路に「雄山道」がみえ、これは雄ノ山峠を越えて和泉国へ入る近世の大坂街道にあたる。山口地域は、この「雄山道」と紀ノ川右岸に沿って東西に走る淡島街道(ほぼ南海道にあたる)との交点に位置し、古代から近世にかけて紀伊国で交通上最も重要なところであった。
駅家郷
うまやごう
「和名抄」高山寺本には掲載されていないが、刊本にはみえ、駅を
に作る。「延喜式」(兵部省)諸国駅伝馬の摂津国草野駅(「和名抄」高山寺本の駅名では草部とある)と同一と考えられる。和銅四年(七一一)に摂津国島上郡大原駅(現高槻市)、同国島下郡殖村駅(現茨木市)を経由する山陽道が設置された(「続日本紀」正月二日条)段階では、この駅家がみられないので、長岡京ないし平安京遷都後に山陽道駅家として新設されたものと考えられるが、この駅家を中心とする地が、郷に編成されたものであろう。ところが一二世紀末期になると垂水西牧萱野郷(現箕面市)の名がみえるようになり(元暦元年九月日「垂水西牧萱野郷百姓等解」春日大社文書)、江戸時代に入っても、今宮・西宿・芝・東稲・西稲の五ヵ村(現箕面市)は萱野と一括してよばれていた(天保郷帳)。
駅家郷
うまやごう
「和名抄」高山寺本は「駅里」と記して「无末也」の訓を付し、東急本は「
家」と記し訓はない。「延喜式」兵部省に備中国に駅馬二〇疋を置く「小田駅」が載り、同駅を中心とした郷であったことは確実である。郷域について「岡山県通史」は現小田郡矢掛町浅海の毎戸を中心とした地域とし、「小田郡誌」「美星町史」は矢掛町矢掛付近から東川面・西川面にかけての地域とする。昭和四九年(一九七四)に行われた発掘調査によって、毎戸遺跡が駅家である可能性が高くなったが、同遺跡は奈良時代から平安初期までの期間のもので、このことからすると、小田駅の移動を想定しなければならなくなる。
駅家郷
うまやごう
「和名抄」東急本所載の郷。「延喜式」兵部省に載せる各務駅を中心として設定された郷であろう。したがって当郷は東山道の経路と不可分である。方県駅を出た東山道は現岐阜市長良古津または雄総付近で長良川を渡り、同市岩田から各務郡に入った。その後現各務原市蘇原地区を通過して同市鵜沼へ出たと考えられている。この鵜沼の地が各務駅にあたることは諸説一致している。また一条兼良の「藤川の記」にその賑いがうたわれている宇留間市は、現鵜沼古市場町に比定されている。
駅家郷
うまやごう
「和名抄」高山寺本に記載を欠くが、東急本に「
家」とみえる。「延喜式」(兵部省)にみえる安那駅の置かれた郷で、安那郡家の所在地と考えられる。「日本地理志料」は黄葉山(紅葉山)下の神辺駅がこれにあたるとし、川南・川北を中心に徳田・道上・箱田・湯野・平野(現深安郡神辺町)など一〇余村を郷域とする。「福山市史」も安那駅とし、神辺町内に比定するが、位置の詳細について道上・西中条西部とする説(旧版「広島県史」)、湯野の南部とする説、上御領・下御領辺りとする説をあげる。
駅家郷
うまやごう
「和名抄」東急本所載の郷。東山道飛騨支路の加茂駅に付随して設定されたと考えられる。「延喜式」兵部省によれば加茂駅に駅馬四疋が置かれた。東山道方県駅(現岐阜市)を過ぎて東山道から分れる飛騨支路五駅中の二番目の駅とされる。同駅の所在地は諸説あるが、「濃飛両国通史」などは前の武義駅、後の下留駅などとの関係から、現川辺町下麻生付近に比定しており、「岐阜県史」はこれに加えて現七宗町神淵とする可能性も示唆している。「大日本地名辞書」は加茂駅を東山道の分岐点と考えて、現美濃加茂市太田地区とするが、駅の記載順に矛盾をきたし、賀茂郡に伝馬の記載がないことなどもあって、東山道の駅とするには規模が小さすぎるように思われる。
駅家郷
うまやごう
「和名抄」高山寺本にはみえず、元和古活字本に「駅屋」と記し、いずれも訓を欠く。「延喜式」(兵部省)の尾張国駅伝馬にある「新溝」駅にあたる地である。特別な行政区であった駅家が発展して郷となったものと考えられる。「和名抄」高山寺本の尾張国の駅名にも「新溝」とある。
「大日本地名辞書」は「今詳ならず、蓋古渡の辺の地なるべし、延喜式、当国の駅馬は馬津、新溝、両村とありて、馬津は海部郡にて新溝は即此愛智郡の駅家たること明瞭なり。新溝の名も後世伝へねど、地形上より推して古渡の地たることを想ふべく、且此は片輪とも称し、古の愛智潟の一港津たりしことも其説あれば、古渡と見て大差なし」として、現名古屋市中区古渡町付近にあてる。
駅家郷
うまやごう
「和名抄」高山寺本にはみえず、刊本に「駅家」と記し、訓を欠くが「うまや」と称していたのであろう。「延喜式」(兵部省)に「長門国駅馬阿潭、厚狭、埴生、宅賀、臨門各廿疋」とあるから、厚狭郡には阿潭・厚狭・埴生の三駅が置かれていたことがわかる。この三駅のうち、厚狭駅は厚狭郷、埴生駅は松室郷が兼ねたとみられるから、阿潭駅の駅家郷とみることが妥当であろう。
「阿潭」は「和名抄」高山寺本には「河潭」と記すが、山陽と山陰を結ぶ小路駅「阿津」を「河津」と記しているように「河」は「阿」の誤りで、「延喜式」の「阿潭」が正しい。「阿潭」の訓読について、「大日本地名辞書」は「豊後風土記に、玖覃をクタミと訓みたる例によれば、アタミなるべし。
駅家郷
うまやごう
「和名抄」東急本にみえ、高山寺本には記載がない。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条は三鴨駅の次に田部駅と衣川駅を記すが、当郷がいずれをさすかは不明である。両駅のうち田部駅については、「田部」を「田郡」の誤記として現上三川町多功に比定する意見が強い。「和名抄」「延喜式」ともに誤記とするのは速断に過ぎると思われるが、しかし多功付近に多功遺跡・多功南原遺跡・上神主遺跡など古代遺跡の分布が濃く、この点からは多功付近に駅家の存在を想定することは不可能ではない。多功南原遺跡を田部駅に比定する見解もある。やや離れるが現南河内町の下野薬師寺跡南方の薬師寺南遺跡からも奈良―平安期の約一二〇軒の住居跡が検出されており、以上の事実は多功付近から薬師寺付近にかけてが古くから人の集住する地域であったことを示している。
駅家郷
うまやごう
「和名抄」刊本に「駅家」、東急本に「
屋」とある。高山寺本に記載はないが存在したことは確実。「延喜式」兵部省に駅馬一四疋を置く津高駅家の記載があり、同駅を中心とした郷である。郷域については現岡山市辛川市場・大窪・一宮を中心とした地域に比定されている。推定郷域内には全長約一二〇メートルの前方後円墳で、特殊器台形埴輪をもつ四世紀後半の中山茶臼山古墳、これに続く全長約一四〇メートルを超える前方後円墳である尾上車山古墳、前方後円墳一基を含む一宮天神山古墳群などがある。西は備中国に接し、南は児島湾に臨む交通の要地としての位置を占める。
駅家郷
うまやごう
「和名抄」高山寺本にはみえず、刊本に「駅家」と記し、訓を欠くが、「うまや」と読んだのであろう。「延喜式」(兵部省)に「長門国駅馬」として「阿津、鹿野、意福、由宇、三隅、参美、垣田、阿武、宅佐、小川各三疋」とある一〇駅は山陽と山陰を結ぶ小路の駅で、このうち美祢郡内の駅家は阿津・鹿野・意福の三駅である。鹿野駅は美祢郷が兼ねていたと考えられるので、残りの阿津駅か意福駅かのどちらかであろう。
「阿津」はもと「厚」と一字で書かれていたが、諸国郡郷名二字の制となって「阿津」と改められたものの、民間ではなお「厚」と書かれたとする(防長地名淵鑑)。
駅家郷
うまやごう
「和名抄」東急本所載の郷。「延喜式」兵部省に載せる東山道美濃八駅の最初不破駅を中心に設定された郷であろう。同駅の位置は青墓宿との兼合いで現大垣市青墓地区に求めるのが一般的である(「濃飛両国通史」「大日本地名辞書」など)。ただし「岐阜県史」は民間交通により発展した青墓と、国家の管理の下にあった駅とは区別すべきとの見解を提示し、不破駅の所在地は現垂井町府中から現大垣市青墓に至る東山道沿いのいずれかの地点とする。
駅家郷
うまやごう
「和名抄」高山寺本にはみえず、東急本に「
家」、元和古活字本に「駅家」と記し、いずれも訓を欠く。「駅」は「和名抄」では「无末夜」(高山寺本)・「無末夜」(元和古活字本)と訓ずる。「延喜式」(兵部省)に尾張国駅馬として「両村」駅と記されるものにあたる。「和名抄」高山寺本の尾張国の駅名には「雨村」駅とみえる。古代の東海道の大路駅で、愛智郡新溝駅から両村駅を経て、三河国鳥捕駅(現岡崎市)に継いだ。
郷域について、「大日本地名辞書」は、現豊明市内に比定し、当郷が両村駅にあたるという。
駅家郷
うまやごう
「和名抄」高山寺本に記載がなく、東急本には「
家」とあって訓を欠く。「延喜式」兵部省に駅馬一〇疋・伝馬五疋を置いた佐位駅がみえ、同駅設立に伴い成立した。郷域は「日本地理志料」は東小保方・西小保方・国定・田部井・上田(現佐波郡東村)、曲沢・間野谷(現同郡赤堀町)、上植木(現伊勢崎市)の地にあてる。
駅家郷
うまやごう
「和名抄」高山寺本には記載されない。東急本にみえるが訓を欠く。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条に「名取、玉前、栖屋、黒川、色麻、玉造(中略)各五疋」とあり、黒川駅は当郷に置かれたと推定される。「日本地理志料」では下草村(現大和町)がその遺名であるとし、鳥屋・大平・北目大崎・幕柳(現同上)、大童・明石(現富谷町)などにわたる地とする。
駅家郷
うまやごう
「和名抄」高山寺本には記載を欠く。「日本地理志料」はこの駅家を「延喜式」(兵部省)の駅馬規定「坂本廿二疋、小総、箕輪、浜田各十二疋」中の箕輪駅にあてる。相模の駅家は「和名抄」によれば足上・足下・大住・高座の各郡にあり、箕輪は大住郡の駅家に該当しよう。「大和物語」に、東下の道順として小総駅(足下郡)から箕輪駅に至るとある。
駅家郷
うまやごう
「和名抄」東急本にみえ、高山寺本には記載がない。高山寺本では居処部駅名項に「三嶋」と載せるが、一般に「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条に載せる三鴨駅に当郷をあてる。当駅を三毳山東方の現下都賀郡岩舟町内に求める点では異論がないが、一極点の比定としては下津原付近(下野国誌・日本地理志料・大日本地名辞書・駅路通)、大字静の駒場付近(上代歴史地理新考)、畳岡付近(日本古代の交通路)、新里付近(栃木県史)など諸説がある。
駅家郷
うまやごう
「和名抄」東急本・名博本にみえる郷名。訓は不明だが、ウマヤであろう。空海作と伝える遠江浜名淡海図(弘法大師全集)に「栗原駅家」が浜名湖の「丙」(南南東)にあると記される。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条所載の栗原駅(現浜松市の伊場遺跡に比定)に付属する駅戸からなる。伊場遺跡からは「栗原」「栗原駅長」「駅長」といった墨書土器や、「駅家玉造
□×」との表記をもつ木簡が、浜松市城山遺跡からは「栗原」の墨書土器などが出土しており、駅戸の集落もこの近辺に設定されたと考えられる。
駅家郷
うまやごう
「和名抄」東急本所載の郷。美濃国東山道八駅の一つ可児駅に付随して設定された郷。「延喜式」兵部省の規程では可児駅には駅馬八疋が置かれた。前駅である各務駅を出てから可児駅に至る東山道の経路は諸説あって一定していないが、可児駅から次の土岐駅までは通称中街道を通ったとされ、可児郡東部の現御嵩町地内に駅を比定するのが一般的である。同町東部の上之郷地区に宿の地名があり、これを可児駅につながるとして当郷の中心とするのが定説となっている。郷域は「御嵩町史」が上之郷からその西の御嵩地区および現加茂郡八百津町の木曾川左岸部の錦津地区にわたる地域としているが未詳。
駅家郷
うまやごう
「和名抄」所載の郷。同書高山寺本は欠く。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条にみえる山陰道射添駅家に相当する。射添駅は矢田川と湯舟川の合流する射添郷の川会・和田(現村岡町)の地域に推定されている。駅路はここから丸味川の谷を登って春来峠(現温泉町)へ通じたと思われるから、駅家の候補地は丸味川と矢田川の合流点付近、現村岡町川会に求める説が妥当か。
駅家郷
うまやごう
「和名抄」高山寺本に記載がなく、訓は諸本に記されない。「延喜式」兵部省に横川駅とあるが、この横川は「息長の横河」とあるように(「日本書紀」天武天皇元年七月七日条)、坂田郡息長の地にあった。当郷はこの横川駅の駅家が発展して単立の郷となったものである。天長一〇年(八三三)二月三〇日の近江国大原郷長解写(正親町伯爵家旧蔵文書)には「大原一条四里」の墾田の売人は「横川駅家戸主大初位下山前連魚麿戸口同姓広継」とあり、また承和二年(八三五)二月一〇日の近江国駅家長解写(同文書)にみえる「売人駅家戸主秦仲麿戸口大初位下小長谷造福成」は、駅名の記載がないがこれも横川駅家としてよいだろう。
駅家郷
うまやごう
「和名抄」高山寺本・刊本ともに訓はない。「延喜式」(兵部省)に「渡津駅」とあり、志賀須賀渡で豊川河口を渡る地点、すなわち度津郷の近くに置かれた駅家であることに異論はない。その位置について述べたものは少ないが、「大日本地名辞書」は「今下地町、然菅村にあたる如し」として豊橋市域に比定するが、「小坂井町史」では小坂井・平井付近とし、同町内の竜徳院境内の糟塚砦の土手は、駅家の庁舎の跡とする説を紹介している。
駅家郷
うまやごう
「和名抄」高山寺本には記載がなく、東急本・刊本ともに訓を欠く。「延喜式」兵部省に篠原駅(現野洲郡野洲町)と鳥籠駅(現彦根市)の間にみえる清水駅は、神崎・蒲生郡界の現五個荘町清水鼻周辺に比定され、同町堂田遺跡は清水駅家の一部とも考えられている。
駅家郷
うまやごう
「和名抄」高山寺本にはみえず、刊本に「駅家」と記し、訓を欠くが、「うまや」と称していたと思われる。「延喜式」(兵部省)に「長門国駅馬」として「阿津、鹿野、意福、由宇、三隅、参美、垣田、阿武、宅佐、小川各三疋」とあり、山陽と山陰を結ぶ小路一〇駅のうち阿武郡内の駅家は、垣(埴か)田・阿武・宅佐・小川の四つである。
駅家郷
うまやごう
「和名抄」高山寺本は郷名を欠き、東急本に訓はない。「大日本地名辞書」は現井原市七日市町・井原町・西江原町・北山町・青野町一帯とし、「岡山県通史」は西江原町の一部を除いてほぼ同地域とする。両説とも「延喜式」兵部省の駅馬二〇疋をおく後月駅を同地域内に存在したとする。通説では後月駅を七日市町に比定しており、右の郷域比定と矛盾はないが、発掘などによって確かめられてはいない。
駅家郷
うまやごう
「和名抄」高山寺本にはみえず、刊本に「駅家」と記し、訓を欠くが、「うまや」と称していたのであろう。
「延喜式」(兵部省)に「周防国駅馬」として「周防」とある山陽道の大路駅で、玖珂郡野口(現玖珂町)からこの周防駅を経て、都濃郡生屋(現下松市)に継いだもので、郷の範囲は現熊毛町の三丘・高水・勝間地区にわたる一帯を想定することで、諸書はほぼ一致している(大日本地名辞書、防長地名淵鑑、光市史)。
駅家郷
うまやごう
「和名抄」高山寺本には記載されないが、東急本は「
家」と記し訓は付さない。「芸藩通志」は「駅家は或は云、今の矢賀村その遺名なりやと」する。「日本地理志料」は矢賀(現広島市東区・南区)、大須賀・牛田・中山・温品(現同市東区)の諸村をあげる。「大日本地名辞書」は「今奥海田村并に畑賀中野等にあたるか、延喜式に安芸駅と云ふ、安芸郷の分地とす」とする。
駅家郷
うまやごう
「和名抄」高山寺本は記載を欠く。「延喜式」(兵部省)に武蔵国駅馬として都筑郡店屋の次に載る小高が当郷の駅家にあたる。すなわち小高駅馬一〇疋、橘樹郡伝馬五疋とみえる。店屋と荏原郡大井駅の中間に位置する。
駅家郷
うまやごう
「和名抄」東急本は訓を欠き、高山寺本には郷名の記載を欠く。「延喜式」(兵部省)伊勢国駅馬に「飯高八疋」とみえる。永仁五―六年(一二九七―九八)頃の文書を収めた「古老口実伝裏書」(神宮文庫蔵)の年欠八月一七日付延誠書状に「僧宗儀与同西安相論飯高神戸馬矢郷所在畠□処」とみえ、飯高神戸と当郷にまたがる畠を宗儀と西安とが相論している。
駅家郷
うまやごう
「和名抄」東急本は訓を欠き、高山寺本は郷名の記載を欠く。「延喜式」(兵部省)諸国駅伝馬に度会駅家は八疋とみえる。弘仁八年(八一七)一二月二五日官符(類聚三代格)には「応
修理
駅家一処在度会郡 倉一宇 屋四宇」とあり、以後大神宮司が修理することとしている。度会駅家は従来「新任弁官抄」に「離宮院駅家也」とあることから離宮院(現小俣町)内に設けられたとされる。
駅家郷
うまやごう
「和名抄」所載の郷。高山寺本には記載されず、東急本と刊本はともに訓を欠く。一般に諸国における駅家郷発生の例としては、駅家が成立した郷の残存部分がなんらかの理由によって本来の郷名を用いない場合と、駅家の付近に新たに戸口が増え、本郷とも駅家ともまったく独立した一郷として建置される場合、さらに駅家の地域が郷と同じような存在となって、駅家そのものをさして駅家郷とよぶようになった場合などが考えられる。
駅家郷
うまやごう
「和名抄」東急本に「
家」、刊本に「駅家」と記され、ともに訓を欠く。高山寺本には記載がない。「常陸国風土記」信太郡の項に「榎の浦の津あり。便ち、駅家を置けり。東海の大道にして、常陸路の頭なり。この所以に、伝駅使等、初めて国に臨らむには、先づ口と手とを洗ひ、東に面きて香島の大神を拝みて、然して後に入ることを得るなり」とみえ、「延喜式」(兵部省)の「常陸国駅馬」には「榛谷五疋」とある。
駅家郷
うまやごう
「和名抄」高山寺本には記載なく、東急本は訓を欠く。「延喜式」兵部省の東山道駅馬に「坂本十五疋、野後、群馬、佐位、新田各十疋」とある。群馬駅は野後駅と佐位駅の中間に位置していた。旧群馬郡元総社町(現前橋市)は上野国府が置かれたと推定され、群馬駅も国府の近くに設けられたと思われる。
駅家郷
うまやごう
「和名抄」東急本所載の郷。「延喜式」兵部省に記載される方県駅を中心に設定された郷であろう。したがって当郷の位置は東山道と不可分である。現岐阜市内には先道・仙道・仙古・せんこなど、東山道の経路をうかがわせる字名が多く残り、しかも東西にほぼ一直線上に並んでいる。方県駅については現岐阜市合渡地区にあてる説(大日本地名辞書)と同市長良地区にあてる説(濃飛両国通史)があるが、想定される東山道の経路、および同駅が東山道とその支路である飛騨支路の分岐点であることから考えると、後説を妥当とすべきである。
駅家郷
うまやごう
「和名抄」高山寺本には記載されず、東急本は訓を欠く。「延喜式」兵部省に駅馬一〇疋・伝馬五疋を置いた「新田」駅がみえ、当郷は新田駅の設置によって成立した。現新田町市野井の北に市・市野倉という地名がある。市野井は正木文書に「一井郷」「一井の郷」で散見する。また「上野国神名帳」に「従三位生階明神」がみえ、現市野井に鎮座する生品神社である。
駅家郷
うまやごう
「和名抄」東急本・名博本にみえる郷名。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条所載の横尾駅の駅戸集団の集落。遺称地名がなく比定地は不明だが、「遠江国風土記伝」「掛川誌稿」「大日本地名辞書」などいずれも近世の掛川城下、現在の掛川市掛川付近に比定する。「静岡県史」は東海道をこの地域の条里地割の東西基準線として復原する考えから、「掛川市中宿付近、下西郷字道上・横町・大井戸付近の山麓」に横尾駅の候補地を求める。
駅家郷
うまやごう
「和名抄」高山寺本には記載を欠く。「延喜式」(兵部省)にみえる市村駅にあてられる。康永三年(一三四四)の法楽寺文書紛失記(京都市田中忠三郎氏蔵文書)に、伊向神田のうちに「肆段大同郷八条九市村里卅四坪」がみえる。
駅家郷
うまやごう
「和名抄」高山寺本には記載がなく、東急本は訓を欠く。諸本により「うまや」と読む。「延喜式」兵部省によれば東山道の坂本駅と群馬駅との中間に野後駅があり、現安中市街地の西部の上野尻、東部の下野尻が野後郷の遺名とされる。駅制の駅家の設置基準からみても距離的にみても、現安中市付近が適当であり、碓氷郡下の駅家は野後駅にあてられよう。東山道は中路であり、駅制によれば中路の駅田は三町歩とされている。
駅家郷
うまやごう
「和名抄」高山寺本にはみえず。刊本に「駅家」と記し、訓を欠くが、「うまや」とよんでいたのであろう。
「延喜式」(兵部省)に「周防国駅馬」として「石国」とある山陽道の大路駅で、安芸国遠管駅(現広島県大竹市)からこの石国駅を経て周防国玖珂郡野口駅(現玖珂町)に継いだものである。
駅家郷
うまやごう
「和名抄」諸本にみえる郷名。通常駅家郷を省略することの多い高山寺本にもみえる。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条などにみえる猪鼻駅の駅戸からなる。「遠江国風土記伝」は猪鼻駅を式内社猪鼻湖神社(現三ヶ日町下尾奈の同名社に比定)の近くに比定し、本坂峠から浜名湖北岸を通るルート上の駅家とする。
駅家郷
うまやごう
「和名抄」東急本所載の郷。「延喜式」兵部省、「和名抄」高山寺本駅名部にみえる大野駅に関連して設定された郷。大野駅の所在地は不明である。「日本地理志料」などは現揖斐郡大野町大野を中心とする一帯に大野駅を比定するが、一般には大野郡南部とされる。
駅家郷
うまやごう
「和名抄」東急本・名博本にみえる郷名。訓は不明だが、ウマヤであろう。九条家本「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条所載の引摩駅(「和名抄」高山寺本では「門摩」)に相当する駅戸集団のものと思われる。
駅家郷
うまやごう
「和名抄」東急本・名博本にみえる郷名。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条所載の遠江国初倉駅の駅戸集落。訓は不明だが、ウマヤであろう。「遠江国風土記伝」は「古駅」として谷口・初倉・大柳新田(現島田市阪本・大柳付近)をあげ、「大日本地名辞書」も初倉村の地とする。
駅家郷
うまやごう
「和名抄」高山寺本に記載がなく、諸本とも訓を欠く。「延喜式」兵部省に鳥籠駅を載せるが、この鳥籠は壬申の乱のときに大海人皇子軍が「鳥籠山」で近江朝廷軍を破ったとあるように(「日本書紀」天武天皇元年七月九日条)、古くからの地名である。鳥籠は「狗上之鳥籠山」(「万葉集」巻一一)とあるように犬上郡で、鳥籠駅は現彦根市大堀町辺りと考えられている。
駅家郷
うまやごう
「和名抄」所載の郷。ただし余戸・神戸とともに駅家を省略することを例としている同書高山寺本にはみえない。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条に「店屋・小高・大井・豊嶋各十疋」とみえる大井駅にかかわる郷で、現品川区の大井を中心にした一帯にあたる。なお、「続日本紀」神護景雲二年(七六八)三月一日条にみえる乗潴駅は現大田区域の馬込に置かれていたと考えられ、その後大井の地に移遷されたらしい。
駅家郷
うまやごう
「和名抄」東急本にみえ、高山寺本には記載がない。高山寺本では居処部駅名項に「足利」と載せる。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条に載せる足利駅の所在地である。足利駅の史料上の初見は「続日本紀」宝亀二年(七七一)一〇月二七日条の太政官奏に「其東山駅路、従上野国新田駅、達下野国足利駅、此便道也」とあるもので、これ以降、上野国新田駅から武蔵国府に立寄り足利駅に向かう駅路が廃され、新田駅から足利駅に直通するように改められた。
駅家郷
うまやごう
「和名抄」高山寺本には記されず、東急本に「
家」とみえ訓を欠く。「日本地理志料」は「駅」は「郡」の誤りとし、郡家の所在郷とする説と、駅家の二字は「遠管」の下に小書してあり、伝写の誤りとする説をあげる。「広島県史」は佐伯郡五駅のうち郷名と一致しないのは伴部駅だけであるから、他の四駅は郷内に駅家を包含すると推定し、駅間等距離の原則を適用すれば、現広島市安佐南区沼田町伴の東端あたりを伴部といい、駅を設けたであろうとする。
駅家郷
うまやごう
「和名抄」高山寺本には記載を欠く。「延喜式」(兵部省)の坂本駅にあたる。すなわち相模国駅馬として「坂本廿二疋、小総、箕輪、浜田各十二疋」とある。足柄山の麓に位置する。「古事記」景行天皇段によれば、倭建命が東征の帰路、「足柄之坂本」で坂の神である白鹿に出会ったという。
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「和名抄」高山寺本・東急本ともに訓を欠く。「延喜式」(兵部省)の相模国駅馬の条に駅馬一二疋の小総駅がある。「日本地理志料」はこれが足下郡の駅家にあたるとし、訓を「乎布佐」とする。「大和物語」に、在原業平の子滋春の東下の際、海に臨む小総駅を過ぎて箕輪駅に至るとあり、海岸寄りの駅家であることが知られる。
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「和名抄」東急本所載の郷。東山道の土岐駅に関連して設定された郷で、所在地について「濃飛両国通史」は現瑞浪市釜戸町に求めている。しかし「瑞浪市史」は中世の釜戸宿と古代の土岐駅とを一応区別し、土岐駅を小田東部または桜堂台地辺りに求めている。
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「和名抄」高山寺本は郷名の記載を欠く。「延喜式」(兵部省)に河曲駅馬一〇疋とあり、「和名抄」高山寺本駅名部にも「河曲」とある。郷域は河曲駅が現鈴鹿市河田町・木田町付近とされ、また天武天皇元年六月の壬申の乱の際、大海人皇子が東国へ向かう途中「川曲の坂下に到りて、日暮れぬ」(日本書紀)とみえることや、丘陵上に国分寺が置かれていることから現鈴鹿市国分町付近の鈴鹿川左岸域の丘陵沿いに比定されるか。
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「和名抄」高山寺本は記載を欠く。「風土記稿」はその地未詳とする。「日本地理志料」は「延喜式」(兵部省)に載せる「浜田」駅をこれにあてる。
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「和名抄」東急本・名博本にみえる郷名。訓を欠くが、ウマヤであろう。貞観六年(八六四)に駿河郡柏原駅が廃止され、「富士河東野」に移された蒲原駅は当郷に所属したと考えられる(「三代実録」同年一二月一〇日条)。
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「和名抄」所載の郷で、高山寺本にはない。訓を欠く。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条に磐瀬駅がある。「大日本地名辞書」「奥羽観蹟聞老志」とも磐瀬郷が駅家を兼ねたとする。前者は磐瀬森につき「今須賀川の駅北に之を伝ふ、森宿の名あるも、恐らくは之に由れる者ならん、即古駅址なり」と記す。
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「和名抄」高山寺本にはみえない。刊本ともに訓はない。「延喜式」(兵部省)の鳥捕駅の地とされる。岡崎市西部の旧矢作町にその地を求めることに諸説一致している。
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「和名抄」所載の郷。ただし余戸・神戸・駅家の各郷を省略することを例とする高山寺本にはみえない。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条に「店屋・小高・大井・豊嶋各十疋」とみえる豊島駅にあたり、豊島郡家跡とされる現北区西ヶ原の御殿前遺跡の辺りに比定されよう。
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「和名抄」高山寺本に記載がないが、東急本・刊本は載せ、「在南北」として南郷と北郷のあったことを記す。諸本とも訓を欠くがムマヤであろう。「延喜式」兵部省によって「篠原」に駅が置かれたことは確実で、この駅家が後年に篠原郷から分離して単立の郷となったものとみられる。
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「和名抄」高山寺本には記載されない。東急本・元和古活字本にみえるが訓を欠く。「大日本地名辞書」では北上川右岸の現水沢市北部から胆沢郡金ヶ崎町東部にわたる地とする。
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「和名抄」高山寺本には記載されない。東急本・元和古活字本にみえるが訓を欠く。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条にみえる磐井駅は、現一関市赤荻や同市萩荘の上黒沢などに比定されており、当郷は両地の間を東流する磐井川流域と考えられるが未詳。
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「和名抄」高山寺本・刊本ともに訓はない。天平勝宝二年(七五〇)四月一九日の正倉院丹裏古文書ならびに「延喜式」(兵部省)に「山綱駅」とみえ、伊場遺跡木簡には「山豆奈駅家」とみえる。
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「和名抄」高山寺本には記載されない。東急本に「
家」、刊本に「駅家」とあり、いずれも訓を欠く。「日本地理志料」では名取駅を名取郷とし、駅家郷をとらない。
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「和名抄」高山寺本には郷名の記載を欠く。「延喜式」(兵部省)には伊勢国駅馬として「鈴鹿廿疋」とみえ、高山寺本駅名部にも「鈴鹿」とある。
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「和名抄」所載の郷で、高山寺本には記載がない。諸本とも訓を欠く。「日本地理志料」「大日本地名辞書」ともに「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条にみえる白浜駅・川上駅を平群郡白浜郷・川上郷に置かれたとし、駅家郷を別郷とはみていない。
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「和名抄」所載の郷で、同書高山寺本に記載がなく、東急本・名博本・元和古活字本にはみえる。葛飾郡内で古代の東海道の駅といえば「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条にみえる井上駅が現市川市市川に推定されているので、当郷はこの駅家が発展して独立の郷になったと考えられる。
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「和名抄」高山寺本には記載されない。東急本にみえるが、訓を欠く。
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「和名抄」所載の郷で、訓を欠く。高山寺本にはない。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条の雄野駅が当郷にあたると考えられ、前項の重出とみられる。
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「和名抄」所載の郷で、訓を欠く。高山寺本になく、東急本は安達郡とする。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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