駅家郷(読み)うまやごう

日本歴史地名大系 「駅家郷」の解説

駅家郷
うまやごう

「和名抄」高山寺本にはみえず、刊本に「駅家」と記し、訓を欠くが、「うまや」と称していたのであろう。

「延喜式」(兵部省)によると、豊浦郡内に置かれた山陽道大路の駅家は、宅賀駅と臨門駅の二駅である。「宅賀」の訓については、「多加」と読む説(日本地理志料、長門国志)と「多久加」と読む説(長門名所雑記)とがあるが、いずれとも決めがたい。駅家郷の駅が宅賀とすれば、郷の範囲は現下関市の小月おづきを中心に清末きよすえ王司おうじにわたる一帯とするのが通説である。

「臨門」の訓読についても二説がある。すなわち、「日本後紀」大同元年(八〇六)五月一四日条に「勅、備後、安芸、周防、長門等国駅館、本備蕃客、瓦葺粉壁、頃年百姓疲弊、修造難堪、或蕃客入朝者、便従海路、其破損者、農閑修理、但長門国駅者、近臨海辺、為人所見、宜特加労、勿前制、其新造者、待定様之」とあって、長門駅館のみは海辺に臨み、人目に触れやすいため、従来どおり瓦葺粉壁にするようにと命ぜられているが、この海辺に臨む駅館のゆえに「りんもん」と読むという説(大日本地名辞書、防長地名淵鑑)、もう一つは、「臨門」は「躯門」の誤写であろうとして「加羅度」と読む説(日本地理志料、長門名所雑記)の二つである。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」高山寺本には記載なく、東急本に「家」とある。「延喜式」(兵部省)諸国駅伝馬の項に志摩国は「鴨部、礒部各四疋」とみえ、この二駅は「和名抄」高山寺本駅名にも記される。うち礒部いそべ駅は磯部いそべ九郷(→伊雑郷のうちにあったと考えられ、「志摩国旧地考」は「今磯部郷中ナル沓掛村ニ長者屋敷ト呼フ地アルハ古ノ駅長者ノ遺址ナルヘシ」と記す。「日本地理志料」も「当時郷兼駅也、(中略)伊雑郷域也」とし、同様に沓掛くつかけ(現志摩郡磯部町)の長者屋敷を「駅長所居」としている。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」東急本に「家」とあり、訓はない。高山寺本に当郷の記載はない。「延喜式」兵部省に山陽道の津高つだか駅と河辺かわべ駅の中間に「津駅」が記されており、同駅を中心とした郷であることは確実である。同駅の所在について従来から重視されてきたのは「今昔物語集」巻一七第四話である。「津郡宮ノ郷」に本拠をもつ富豪の藤原文時の従者の一人が、主人に従わなかったため「津坂」で殺されることになるが、一心に地蔵菩薩を念じて救われたという話である。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」高山寺本にはみえず、東急本に「家」と記すが訓は欠く。他史料にみえずつまびらかでないが、「続風土記」は「雑家の誤にして、今の雑賀荘の地ならむ、又の字、布の仮字に用ひ、家は計の仮字を用いて家は布計とよみ、即吹上の事ならんか、何れにも今の雑賀荘の地なるはたかはす」とする。また「日本地理志料」は「今衣奈荘有吹井村、呼曰布介韋、是其遺也、按図亘三尾川、衣奈、小引、大引、神谷、吹井六邑、是其郷域也」とする。両書とも「家」をフケ、フケイと読むことに立脚しての推論である。「大日本地名辞書」はミヤケと訓じて、和歌浦わかのうらの「妙見山」はその転訛とするが、補考で駅家の誤りかと疑問を呈する。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」高山寺本にはみえず、東急本に「家」と記すが、訓は欠く。郡名を冠する名草駅の存在した郷であろう。「続風土記」「大日本地名辞書」ともに、近世に宿駅のあった現和歌山市山口やまぐち地区に比定する。「日本後紀」延暦二三年(八〇四)一〇月条に桓武天皇の紀伊行幸の帰路に「雄山道」がみえ、これはやま峠を越えて和泉国へ入る近世の大坂街道にあたる。山口地域は、この「雄山道」と紀ノ川右岸に沿って東西に走る淡島街道(ほぼ南海道にあたる)との交点に位置し、古代から近世にかけて紀伊国で交通上最も重要なところであった。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」高山寺本には掲載されていないが、刊本にはみえ、駅をに作る。「延喜式」(兵部省)諸国駅伝馬の摂津国草野すすき(「和名抄」高山寺本の駅名では草部とある)と同一と考えられる。和銅四年(七一一)に摂津国島上しまかみ大原おおはら(現高槻市)、同国島下しましも殖村うえむら(現茨木市)を経由する山陽道が設置された(「続日本紀」正月二日条)段階では、この駅家がみられないので、長岡京ないし平安京遷都後に山陽道駅家として新設されたものと考えられるが、この駅家を中心とする地が、郷に編成されたものであろう。ところが一二世紀末期になると垂水西たるみのにし萱野かやの(現箕面市)の名がみえるようになり(元暦元年九月日「垂水西牧萱野郷百姓等解」春日大社文書)、江戸時代に入っても、今宮いまみや西宿にしじゆくしば東稲ひがしいな・西稲の五ヵ村(現箕面市)は萱野と一括してよばれていた(天保郷帳)


駅家郷
うまやごう

「和名抄」高山寺本は「駅里」と記して「无末也」の訓を付し、東急本は「家」と記し訓はない。「延喜式」兵部省に備中国に駅馬二〇疋を置く「小田駅」が載り、同駅を中心とした郷であったことは確実である。郷域について「岡山県通史」は現小田郡矢掛やかげ浅海の毎戸あすみのまいどを中心とした地域とし、「小田郡誌」「美星町史」は矢掛町矢掛付近から東川面ひがしかわも・西川面にかけての地域とする。昭和四九年(一九七四)に行われた発掘調査によって、毎戸遺跡が駅家である可能性が高くなったが、同遺跡は奈良時代から平安初期までの期間のもので、このことからすると、小田駅の移動を想定しなければならなくなる。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」高山寺本になく、東急本に「家」と記される。訓は欠く。「日本地理志料」は「品治駅家、蓋言戸手、近田、新市諸邑也、近田有駅山、有馬宿山最明寺、為駅阯以証」とする。「大日本地名辞書」は「今戸手村、近田村なり、品治郷の西に接す」とし、「日本地理志料」と同様の論拠をあげる。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」に訓はなく、駅をに作る。高山寺本は当郷名を欠く。「延喜式」(兵部省)は摂津国の駅として三駅をあげるが、いずれも山陽道に関係したもので西成郡以外の地にある。延暦二年(七八三)六月一七日付の太政官牒(東南院文書)によって、当駅が設置された。同官牒によれば「今置駅家」くために、西成郡の堀江ほりえ(現大川)の北にあった東大寺の寺家じけ庄の庄地九反余とその地に建てられていた板倉二、甲倉一、屋三を政府が入手し、そのかわりに対岸の堀江の南にある東生ひがしなり郡の勅旨省の地一町五反とそこに建てられていた板倉二、甲倉一、屋一を東大寺に譲っている。右の記載によると西成郡と東生郡が堀江を挟んで南北に位置した場所に駅家があったことになるが、それにふさわしい場所としては現大阪市北区の天満てんまを求めうる。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」東急本所載の郷。「延喜式」兵部省に載せる各務駅を中心として設定された郷であろう。したがって当郷は東山道の経路と不可分である。方県かたがた駅を出た東山道は現岐阜市長良古津ながらふるつまたは雄総おぶさ付近で長良川を渡り、同市岩田いわたから各務郡に入った。その後現各務原かかみがはら蘇原そはら地区を通過して同市鵜沼うぬまへ出たと考えられている。この鵜沼の地が各務駅にあたることは諸説一致している。また一条兼良の「藤川の記」にその賑いがうたわれている宇留間うるま市は、現鵜沼古市場うぬまふるいちば町に比定されている。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」高山寺本に記載を欠くが、東急本に「家」とみえる。「延喜式」(兵部省)にみえる安那駅の置かれた郷で、安那郡家の所在地と考えられる。「日本地理志料」は黄葉こうよう(紅葉山)下の神辺かんなべ駅がこれにあたるとし、川南かわみなみ川北かわきたを中心に徳田とくだ道上みちのうえ箱田はこだ湯野ゆの平野ひらの(現深安郡神辺町)など一〇余村を郷域とする。「福山市史」も安那駅とし、神辺町内に比定するが、位置の詳細について道上・西中条にしちゆうじよう西部とする説(旧版「広島県史」)、湯野の南部とする説、上御領かみごりよう・下御領辺りとする説をあげる。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」東急本所載の郷。東山道飛騨支路の加茂駅に付随して設定されたと考えられる。「延喜式」兵部省によれば加茂駅に駅馬四疋が置かれた。東山道方県かたがた(現岐阜市)を過ぎて東山道から分れる飛騨支路五駅中の二番目の駅とされる。同駅の所在地は諸説あるが、「濃飛両国通史」などは前の武義むげ駅、後の下留しもつとまり駅などとの関係から、現川辺かわべ下麻生しもあそう付近に比定しており、「岐阜県史」はこれに加えて現七宗ひちそう神淵かぶちとする可能性も示唆している。「大日本地名辞書」は加茂駅を東山道の分岐点と考えて、現美濃加茂市太田おおた地区とするが、駅の記載順に矛盾をきたし、賀茂郡に伝馬の記載がないことなどもあって、東山道の駅とするには規模が小さすぎるように思われる。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」高山寺本にはみえず、刊本に「駅家」と記し、訓を欠くが、「うまや」と称したことは間違いあるまい。「延喜式」(兵部省)に「長門国駅馬」として「由宇」とあるが、山陰と山陽を結ぶ小路の由宇ゆう駅を兼ねた郷と思われる。「和名抄」高山寺本は駅名を「田宇」と記すが、「由宇」の誤りである。郷名は温泉に由来し、「日本地理志料」は「今有湯町、出温泉、与豊浦郡稲目村隣接、亘俵山・俵山市諸邑」として、現長門市俵山たわらやまの周辺を郷域に比定するが、意福おふく駅と三隅みすみ駅の中間の駅としては迂回しすぎるとして、「防長地名淵鑑」は長門市の深川湯本ふかわゆもとをこれに比定している。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」高山寺本にはみえず、元和古活字本に「駅屋」と記し、いずれも訓を欠く。「延喜式」(兵部省)の尾張国駅伝馬にある「新溝にひみそ」駅にあたる地である。特別な行政区であった駅家が発展して郷となったものと考えられる。「和名抄」高山寺本の尾張国の駅名にも「新溝」とある。

「大日本地名辞書」は「今詳ならず、蓋古渡の辺の地なるべし、延喜式、当国の駅馬は馬津、新溝、両村とありて、馬津は海部郡にて新溝にひみぞは即此愛智郡の駅家たること明瞭なり。新溝の名も後世伝へねど、地形上より推して古渡の地たることを想ふべく、且此は片輪とも称し、古の愛智潟の一港津たりしことも其説あれば、古渡と見て大差なし」として、現名古屋市中区古渡ふるわたり町付近にあてる。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」高山寺本にはみえず、刊本に「駅家」と記し、訓を欠くが「うまや」と称していたのであろう。「延喜式」(兵部省)に「長門国駅馬阿潭、厚狭、埴生、宅賀、臨門各廿疋」とあるから、厚狭郡には阿潭あたみ厚狭あつさ埴生はぶの三駅が置かれていたことがわかる。この三駅のうち、厚狭駅は厚狭郷、埴生駅は松室まつや郷が兼ねたとみられるから、阿潭駅の駅家郷とみることが妥当であろう。

「阿潭」は「和名抄」高山寺本には「河潭」と記すが、山陽と山陰を結ぶ小路駅「阿津」を「河津」と記しているように「河」は「阿」の誤りで、「延喜式」の「阿潭」が正しい。「阿潭」の訓読について、「大日本地名辞書」は「豊後風土記に、玖覃をクタミと訓みたる例によれば、アタミなるべし。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」東急本にみえ、高山寺本には記載がない。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条は三鴨みかも駅の次に田部たべ駅と衣川きぬがわ駅を記すが、当郷がいずれをさすかは不明である。両駅のうち田部駅については、「田部」を「田郡」の誤記として現上三川かみのかわ多功たこうに比定する意見が強い。「和名抄」「延喜式」ともに誤記とするのは速断に過ぎると思われるが、しかし多功付近に多功遺跡・多功南原たこうみなみはら遺跡・上神主かみこうぬし遺跡など古代遺跡の分布が濃く、この点からは多功付近に駅家の存在を想定することは不可能ではない。多功南原遺跡を田部駅に比定する見解もある。やや離れるが現南河内町の下野薬師寺跡南方の薬師寺南やくしじみなみ遺跡からも奈良―平安期の約一二〇軒の住居跡が検出されており、以上の事実は多功付近から薬師寺付近にかけてが古くから人の集住する地域であったことを示している。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」刊本に「駅家」、東急本に「屋」とある。高山寺本に記載はないが存在したことは確実。「延喜式」兵部省に駅馬一四疋を置く津高駅家の記載があり、同駅を中心とした郷である。郷域については現岡山市辛川市場からかわいちば大窪おおくぼ一宮いちのみやを中心とした地域に比定されている。推定郷域内には全長約一二〇メートルの前方後円墳で、特殊器台形埴輪をもつ四世紀後半の中山茶臼山なかやまちやうすやま古墳、これに続く全長約一四〇メートルを超える前方後円墳である尾上車山おのうえくるまやま古墳、前方後円墳一基を含む一宮天神山いちのみやてんじんやま古墳群などがある。西は備中国に接し、南は児島こじま湾に臨む交通の要地としての位置を占める。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」高山寺本には記載を欠くが、東急本に「家」と記す。「日本地理志料」は「旧本葦田下、細書駅家二字伝写之久、誤為本行耶」とする。この駅は品治ほむち(現福山市)者度いつと(現御調郡御調町)の中間にあった。「大日本地名辞書」は「今詳ならず、此一駅は府中より御調郡壱度に通ふものと知らるれば、栗柄柞摩などの山中なるべし」とする。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」高山寺本にはみえず、刊本に「駅家」と記し、訓を欠くが、「うまや」と読んだのであろう。「延喜式」(兵部省)に「長門国駅馬」として「阿津、鹿野、意福、由宇、三隅、参美、垣田、阿武、宅佐、小川各三疋」とある一〇駅は山陽と山陰を結ぶ小路の駅で、このうち美祢郡内の駅家は阿津あつ鹿野かの意福おふくの三駅である。鹿野駅は美祢郷が兼ねていたと考えられるので、残りの阿津駅か意福駅かのどちらかであろう。

「阿津」はもと「厚」と一字で書かれていたが、諸国郡郷名二字の制となって「阿津」と改められたものの、民間ではなお「厚」と書かれたとする(防長地名淵鑑)


駅家郷
うまやごう

「和名抄」東急本所載の郷。「延喜式」兵部省に載せる東山道美濃八駅の最初不破駅を中心に設定された郷であろう。同駅の位置は青墓あおはか宿との兼合いで現大垣市青墓地区に求めるのが一般的である(「濃飛両国通史」「大日本地名辞書」など)。ただし「岐阜県史」は民間交通により発展した青墓と、国家の管理の下にあった駅とは区別すべきとの見解を提示し、不破駅の所在地は現垂井たるい府中ふちゆうから現大垣市青墓に至る東山道沿いのいずれかの地点とする。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」高山寺本にはみえず、東急本に「家」、元和古活字本に「駅家」と記し、いずれも訓を欠く。「駅」は「和名抄」では「无末夜」(高山寺本)・「無末夜」(元和古活字本)と訓ずる。「延喜式」(兵部省)に尾張国駅馬として「両村ふたむら」駅と記されるものにあたる。「和名抄」高山寺本の尾張国の駅名には「雨村」駅とみえる。古代の東海道の大路駅で、愛智郡新溝にいみぞ駅から両村駅を経て、三河国鳥捕ととり(現岡崎市)に継いだ。

郷域について、「大日本地名辞書」は、現豊明市内に比定し、当郷が両村駅にあたるという。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」高山寺本に記載がなく、東急本には「家」とあって訓を欠く。「延喜式」兵部省に駅馬一〇疋・伝馬五疋を置いた佐位駅がみえ、同駅設立に伴い成立した。郷域は「日本地理志料」は東小保方ひがしおぼかた・西小保方・国定くにさだ田部井たべい上田かみだ(現佐波郡東村)曲沢まがりさわ間野谷あいのや(現同郡赤堀町)上植木かみうえき(現伊勢崎市)の地にあてる。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」高山寺本には記載されない。東急本にみえるが訓を欠く。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条に「名取、玉さい栖屋すねや、黒川、色麻しかま、玉造(中略)各五疋」とあり、黒川駅は当郷に置かれたと推定される。「日本地理志料」では下草しもくさ(現大和町)がその遺名であるとし、鳥屋とや大平おおだいら北目大崎きためおおさき幕柳まくやなぎ(現同上)大童おおわら明石あかいし(現富谷町)などにわたる地とする。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」高山寺本には記載を欠く。「日本地理志料」はこの駅家を「延喜式」(兵部省)の駅馬規定「坂本廿二疋、小総、箕輪、浜田各十二疋」中の箕輪みのわ駅にあてる。相模の駅家は「和名抄」によれば足上あしかみ足下あししも・大住・高座たかくらの各郡にあり、箕輪は大住郡の駅家に該当しよう。「大和物語」に、東下の道順として小総おふさ(足下郡)から箕輪駅に至るとある。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」東急本にみえ、高山寺本には記載がない。高山寺本では居処部駅名項に「三嶋」と載せるが、一般に「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条に載せる三鴨みかも駅に当郷をあてる。当駅を三毳みかも山東方の現下都賀郡岩舟いわふね町内に求める点では異論がないが、一極点の比定としては下津原しもつばら付近(下野国誌・日本地理志料・大日本地名辞書・駅路通)、大字静の駒場しずかのこまば付近(上代歴史地理新考)畳岡たたみおか付近(日本古代の交通路)新里につさと付近(栃木県史)など諸説がある。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」東急本・名博本にみえる郷名。訓は不明だが、ウマヤであろう。空海作と伝える遠江浜名淡海図(弘法大師全集)に「栗原駅家」が浜名湖の「丙」(南南東)にあると記される。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条所載の栗原くりはら(現浜松市の伊場遺跡に比定)に付属する駅戸からなる。伊場いば遺跡からは「栗原」「栗原駅長」「駅長」といった墨書土器や、「駅家玉造(万カ)×」との表記をもつ木簡が、浜松市城山しろやま遺跡からは「栗原」の墨書土器などが出土しており、駅戸の集落もこの近辺に設定されたと考えられる。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」東急本所載の郷。美濃国東山道八駅の一つ可児駅に付随して設定された郷。「延喜式」兵部省の規程では可児駅には駅馬八疋が置かれた。前駅である各務かかみ駅を出てから可児駅に至る東山道の経路は諸説あって一定していないが、可児駅から次の土岐駅までは通称中街道を通ったとされ、可児郡東部の現御嵩みたけ町地内に駅を比定するのが一般的である。同町東部の上之郷かみのごう地区に宿しゆくの地名があり、これを可児駅につながるとして当郷の中心とするのが定説となっている。郷域は「御嵩町史」が上之郷からその西の御嵩地区および現加茂郡八百津やおつ町の木曾川左岸部の錦津にしきつ地区にわたる地域としているが未詳。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」所載の郷。同書高山寺本は欠く。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条にみえる山陰道射添いそう駅家に相当する。射添駅は矢田やだ川と湯舟ゆぶね川の合流する射添郷の川会かわい和田わだ(現村岡町)の地域に推定されている。駅路はここから丸味まるみ川の谷を登って春来はるき(現温泉町)へ通じたと思われるから、駅家の候補地は丸味川と矢田川の合流点付近、現村岡町川会に求める説が妥当か。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」高山寺本に記載がなく、訓は諸本に記されない。「延喜式」兵部省に横川よかわ駅とあるが、この横川は「息長の横河」とあるように(「日本書紀」天武天皇元年七月七日条)、坂田郡息長おきながの地にあった。当郷はこの横川駅の駅家が発展して単立の郷となったものである。天長一〇年(八三三)二月三〇日の近江国大原郷長解写(正親町伯爵家旧蔵文書)には「大原一条四里」の墾田の売人は「横川駅家戸主大初位下山前連魚麿戸口同姓広継」とあり、また承和二年(八三五)二月一〇日の近江国駅家長解写(同文書)にみえる「売人駅家戸主秦仲麿戸口大初位下小長谷造福成」は、駅名の記載がないがこれも横川駅家としてよいだろう。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」高山寺本・刊本ともに訓はない。「延喜式」(兵部省)に「渡津駅」とあり、志賀須賀しかすが渡で豊川河口を渡る地点、すなわち度津わたむつ郷の近くに置かれた駅家であることに異論はない。その位置について述べたものは少ないが、「大日本地名辞書」は「今下地町、然菅村にあたる如し」として豊橋市域に比定するが、「小坂井町史」では小坂井こざかい平井ひらい付近とし、同町内の竜徳りゆうとく院境内の糟塚かすづか砦の土手は、駅家の庁舎の跡とする説を紹介している。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」高山寺本には記載がなく、東急本・刊本ともに訓を欠く。「延喜式」兵部省に篠原しのはら(現野洲郡野洲町)鳥籠とこ(現彦根市)の間にみえる清水しみず駅は、神崎・蒲生がもう郡界の現五個荘ごかしよう清水鼻しみずはな周辺に比定され、同町堂田どうだ遺跡は清水駅家の一部とも考えられている。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」高山寺本にはみえず、刊本に「駅家」と記し、訓を欠くが、「うまや」と称していたと思われる。「延喜式」(兵部省)に「長門国駅馬」として「阿津、鹿野、意福、由宇、三隅、参美、垣田、阿武、宅佐、小川各三疋」とあり、山陽と山陰を結ぶ小路一〇駅のうち阿武郡内の駅家は、垣(埴か)田・阿武・宅佐たかさ小川おがわの四つである。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」高山寺本は郷名を欠き、東急本に訓はない。「大日本地名辞書」は現井原市七日市なぬかいち町・井原町・西江原にしえばら町・北山きたやま町・青野あおの町一帯とし、「岡山県通史」は西江原町の一部を除いてほぼ同地域とする。両説とも「延喜式」兵部省の駅馬二〇疋をおく後月駅を同地域内に存在したとする。通説では後月駅を七日市町に比定しており、右の郷域比定と矛盾はないが、発掘などによって確かめられてはいない。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」高山寺本にはみえず、刊本に「駅家」と記し、訓を欠くが、「うまや」と称していたのであろう。

「延喜式」(兵部省)に「周防国駅馬」として「周防」とある山陽道の大路駅で、玖珂くが野口のぐち(現玖珂町)からこの周防すわ駅を経て、都濃つの生屋いくのや(現下松市)に継いだもので、郷の範囲は現熊毛くまげ町の三丘みつお高水たかみず勝間かつま地区にわたる一帯を想定することで、諸書はほぼ一致している(大日本地名辞書、防長地名淵鑑、光市史)


駅家郷
うまやごう

「和名抄」高山寺本には記載されないが、東急本は「家」と記し訓は付さない。「芸藩通志」は「駅家は或は云、今の矢賀村その遺名なりやと」する。「日本地理志料」は矢賀やが(現広島市東区・南区)大須賀おおすが牛田うした中山なかやま温品ぬくしな(現同市東区)の諸村をあげる。「大日本地名辞書」は「今奥海田村并に畑賀中野等にあたるか、延喜式に安芸駅と云ふ、安芸郷の分地とす」とする。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」高山寺本は記載を欠く。「延喜式」(兵部省)に武蔵国駅馬として都筑つづき店屋まちやの次に載る小高おだかが当郷の駅家にあたる。すなわち小高駅馬一〇疋、橘樹郡伝馬五疋とみえる。店屋と荏原えばら大井おおい駅の中間に位置する。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」東急本は訓を欠き、高山寺本には郷名の記載を欠く。「延喜式」(兵部省)伊勢国駅馬に「飯高八疋」とみえる。永仁五―六年(一二九七―九八)頃の文書を収めた「古老口実伝裏書」(神宮文庫蔵)の年欠八月一七日付延誠書状に「僧宗儀同西安相論飯高神戸馬矢郷所在畠□処」とみえ、飯高神戸と当郷にまたがる畠を宗儀と西安とが相論している。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」東急本は訓を欠き、高山寺本は郷名の記載を欠く。「延喜式」(兵部省)諸国駅伝馬に度会駅家は八疋とみえる。弘仁八年(八一七)一二月二五日官符(類聚三代格)には「応修理駅家一処在度会郡 倉一宇 屋四宇」とあり、以後大神宮司が修理することとしている。度会駅家は従来「新任弁官抄」に「離宮院駅家也」とあることから離宮りきゆう(現小俣町)内に設けられたとされる。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」所載の郷。高山寺本には記載されず、東急本と刊本はともに訓を欠く。一般に諸国における駅家郷発生の例としては、駅家が成立した郷の残存部分がなんらかの理由によって本来の郷名を用いない場合と、駅家の付近に新たに戸口が増え、本郷とも駅家ともまったく独立した一郷として建置される場合、さらに駅家の地域が郷と同じような存在となって、駅家そのものをさして駅家郷とよぶようになった場合などが考えられる。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」東急本に「家」、刊本に「駅家」と記され、ともに訓を欠く。高山寺本には記載がない。「常陸国風土記」信太郡の項に「榎の浦の津あり。便ち、駅家を置けり。東海の大道にして、常陸路の頭なり。この所以に、伝駅使等、初めて国に臨らむには、先づ口と手とを洗ひ、東に面きて香島の大神を拝みて、然して後に入ることを得るなり」とみえ、「延喜式」(兵部省)の「常陸国駅馬」には「榛谷五疋」とある。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」高山寺本には記載なく、東急本は訓を欠く。「延喜式」兵部省の東山道駅馬に「坂本十五疋、野後、群馬、佐位、新田各十疋」とある。群馬くるま駅は野後のじり駅と佐位さい駅の中間に位置していた。旧群馬郡元総社もとそうじや(現前橋市)は上野国府が置かれたと推定され、群馬駅も国府の近くに設けられたと思われる。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」東急本所載の郷。「延喜式」兵部省に記載される方県駅を中心に設定された郷であろう。したがって当郷の位置は東山道と不可分である。現岐阜市内には先道せんどう仙道せんどう仙古せんこ・せんこなど、東山道の経路をうかがわせる字名が多く残り、しかも東西にほぼ一直線上に並んでいる。方県駅については現岐阜市合渡ごうど地区にあてる説(大日本地名辞書)と同市長良地区にあてる説(濃飛両国通史)があるが、想定される東山道の経路、および同駅が東山道とその支路である飛騨支路の分岐点であることから考えると、後説を妥当とすべきである。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」高山寺本には記載されず、東急本は訓を欠く。「延喜式」兵部省に駅馬一〇疋・伝馬五疋を置いた「新田ニフタ」駅がみえ、当郷は新田駅の設置によって成立した。現新田町市野井いちのいの北にいち市野倉いちのくらという地名がある。市野井は正木文書に「一井郷」「一井の郷」で散見する。また「上野国神名帳」に「従三位生階明神」がみえ、現市野井に鎮座する生品いくしな神社である。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」東急本・名博本にみえる郷名。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条所載の横尾よこお駅の駅戸集団の集落。遺称地名がなく比定地は不明だが、「遠江国風土記伝」「掛川誌稿」「大日本地名辞書」などいずれも近世の掛川城下、現在の掛川市掛川付近に比定する。「静岡県史」は東海道をこの地域の条里地割の東西基準線として復原する考えから、「掛川市中宿付近、下西郷字道上・横町・大井戸付近の山麓」に横尾駅の候補地を求める。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」高山寺本には記載を欠く。「延喜式」(兵部省)にみえる市村いちむら駅にあてられる。康永三年(一三四四)の法楽寺文書紛失記(京都市田中忠三郎氏蔵文書)に、伊向神田のうちに「肆段大(石田)郷八条九市村里卅四坪」がみえる。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」高山寺本には記載がなく、東急本は訓を欠く。諸本により「うまや」と読む。「延喜式」兵部省によれば東山道の坂本さかもと駅と群馬くるま駅との中間に野後のじり駅があり、現安中市街地の西部の上野尻かみのじり、東部の下野尻が野後郷の遺名とされる。駅制の駅家の設置基準からみても距離的にみても、現安中市付近が適当であり、碓氷郡下の駅家は野後駅にあてられよう。東山道は中路であり、駅制によれば中路の駅田は三町歩とされている。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」高山寺本にはみえず。刊本に「駅家」と記し、訓を欠くが、「うまや」とよんでいたのであろう。

「延喜式」(兵部省)に「周防国駅馬」として「石国」とある山陽道の大路駅で、安芸国遠管おくだ(現広島県大竹市)からこの石国いわくに駅を経て周防国玖珂郡野口のぐち(現玖珂町)に継いだものである。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」諸本にみえる郷名。通常駅家郷を省略することの多い高山寺本にもみえる。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条などにみえる猪鼻いのはな駅の駅戸からなる。「遠江国風土記伝」は猪鼻駅を式内社猪鼻湖いはなこ神社(現三ヶ日町下尾奈の同名社に比定)の近くに比定し、本坂峠から浜名湖北岸を通るルート上の駅家とする。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」東急本所載の郷。「延喜式」兵部省、「和名抄」高山寺本駅名部にみえる大野駅に関連して設定された郷。大野駅の所在地は不明である。「日本地理志料」などは現揖斐いび郡大野町大野を中心とする一帯に大野駅を比定するが、一般には大野郡南部とされる。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」東急本・名博本にみえる郷名。訓は不明だが、ウマヤであろう。九条家本「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条所載の引摩いんま(「和名抄」高山寺本では「門摩」)に相当する駅戸集団のものと思われる。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」東急本・名博本にみえる郷名。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条所載の遠江国初倉はづくら駅の駅戸集落。訓は不明だが、ウマヤであろう。「遠江国風土記伝」は「古駅」として谷口やぐち・初倉・大柳おおやなぎ新田(現島田市阪本・大柳付近)をあげ、「大日本地名辞書」も初倉村の地とする。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」高山寺本に記載がなく、諸本とも訓を欠く。「延喜式」兵部省に鳥籠とこ駅を載せるが、この鳥籠は壬申の乱のときに大海人皇子軍が「鳥籠山」で近江朝廷軍を破ったとあるように(「日本書紀」天武天皇元年七月九日条)、古くからの地名である。鳥籠は「狗上之鳥籠山」(「万葉集」巻一一)とあるように犬上郡で、鳥籠駅は現彦根市大堀おおぼり町辺りと考えられている。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」所載の郷。ただし余戸・神戸とともに駅家を省略することを例としている同書高山寺本にはみえない。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条に「店屋・小高・大井・豊嶋各十疋」とみえる大井おおい駅にかかわる郷で、現品川区の大井を中心にした一帯にあたる。なお、「続日本紀」神護景雲二年(七六八)三月一日条にみえる乗潴あまぬま駅は現大田区域の馬込まごめに置かれていたと考えられ、その後大井の地に移遷されたらしい。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」東急本にみえ、高山寺本には記載がない。高山寺本では居処部駅名項に「足利」と載せる。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条に載せる足利駅の所在地である。足利駅の史料上の初見は「続日本紀」宝亀二年(七七一)一〇月二七日条の太政官奏に「其東山駅路、従上野国新田駅、達下野国足利駅、此便道也」とあるもので、これ以降、上野国新田駅から武蔵国府に立寄り足利駅に向かう駅路が廃され、新田駅から足利駅に直通するように改められた。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」高山寺本には記されず、東急本に「家」とみえ訓を欠く。「日本地理志料」は「駅」は「郡」の誤りとし、郡家の所在郷とする説と、駅家の二字は「遠管」の下に小書してあり、伝写の誤りとする説をあげる。「広島県史」は佐伯郡五駅のうち郷名と一致しないのは伴部とも駅だけであるから、他の四駅は郷内に駅家を包含すると推定し、駅間等距離の原則を適用すれば、現広島市安佐南区沼田ぬまたともの東端あたりを伴部といい、駅を設けたであろうとする。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」高山寺本には記載を欠く。「延喜式」(兵部省)坂本さかもと駅にあたる。すなわち相模国駅馬として「坂本廿二疋、小総、箕輪、浜田各十二疋」とある。足柄あしがら山の麓に位置する。「古事記」景行天皇段によれば、倭建命が東征の帰路、「足柄之坂本」で坂の神である白鹿に出会ったという。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」高山寺本・東急本ともに訓を欠く。「延喜式」(兵部省)の相模国駅馬の条に駅馬一二疋の小総おふさ駅がある。「日本地理志料」はこれが足下郡の駅家にあたるとし、訓を「乎布佐」とする。「大和物語」に、在原業平の子滋春の東下の際、海に臨む小総駅を過ぎて箕輪みのわ駅に至るとあり、海岸寄りの駅家であることが知られる。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」東急本所載の郷。東山道の土岐駅に関連して設定された郷で、所在地について「濃飛両国通史」は現瑞浪みずなみ釜戸かまど町に求めている。しかし「瑞浪市史」は中世の釜戸宿と古代の土岐駅とを一応区別し、土岐駅を小田おだ東部または桜堂さくらどう台地辺りに求めている。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」高山寺本は郷名の記載を欠く。「延喜式」(兵部省)に河曲駅馬一〇疋とあり、「和名抄」高山寺本駅名部にも「河曲」とある。郷域は河曲駅が現鈴鹿市河田こうだ町・木田きだ町付近とされ、また天武天皇元年六月の壬申の乱の際、大海人皇子が東国へ向かう途中「川曲の坂下に到りて、日暮れぬ」(日本書紀)とみえることや、丘陵上に国分寺が置かれていることから現鈴鹿市国分こくぶ町付近の鈴鹿川左岸域の丘陵沿いに比定されるか。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」高山寺本は記載を欠く。「風土記稿」はその地未詳とする。「日本地理志料」は「延喜式」(兵部省)に載せる「浜田」駅をこれにあてる。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」東急本・名博本にみえる郷名。訓を欠くが、ウマヤであろう。貞観六年(八六四)に駿河郡柏原かしわはら駅が廃止され、「富士河東野」に移された蒲原駅は当郷に所属したと考えられる(「三代実録」同年一二月一〇日条)


駅家郷
うまやごう

「和名抄」所載の郷で、高山寺本にはない。訓を欠く。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条に磐瀬駅がある。「大日本地名辞書」「奥羽観蹟聞老志」とも磐瀬郷が駅家を兼ねたとする。前者は磐瀬森につき「今須賀川の駅北に之を伝ふ、森宿もりじゆくの名あるも、恐らくは之に由れる者ならん、即古駅址なり」と記す。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」高山寺本にはみえない。刊本ともに訓はない。「延喜式」(兵部省)鳥捕ととり駅の地とされる。岡崎市西部の旧矢作やはぎ町にその地を求めることに諸説一致している。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」所載の郷。ただし余戸・神戸・駅家の各郷を省略することを例とする高山寺本にはみえない。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条に「店屋・小高・大井・豊嶋各十疋」とみえる豊島駅にあたり、豊島郡家跡とされる現北区西ヶ原にしがはら御殿前ごてんまえ遺跡の辺りに比定されよう。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」高山寺本に記載がないが、東急本・刊本は載せ、「在南北」として南郷と北郷のあったことを記す。諸本とも訓を欠くがムマヤであろう。「延喜式」兵部省によって「篠原」に駅が置かれたことは確実で、この駅家が後年に篠原郷から分離して単立の郷となったものとみられる。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」高山寺本には記載されない。東急本・元和古活字本にみえるが訓を欠く。「大日本地名辞書」では北上川右岸の現水沢市北部から胆沢郡金ヶ崎かねがさき町東部にわたる地とする。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」高山寺本には記載されない。東急本・元和古活字本にみえるが訓を欠く。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条にみえる磐井駅は、現一関市赤荻あこおぎや同市萩荘はぎしよう上黒沢かみくろさわなどに比定されており、当郷は両地の間を東流する磐井川流域と考えられるが未詳。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」高山寺本・刊本ともに訓はない。天平勝宝二年(七五〇)四月一九日の正倉院丹裏古文書ならびに「延喜式」(兵部省)に「山綱駅」とみえ、伊場遺跡木簡には「山豆奈駅家」とみえる。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」高山寺本には記載されない。東急本に「家」、刊本に「駅家」とあり、いずれも訓を欠く。「日本地理志料」では名取駅を名取郷とし、駅家郷をとらない。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」高山寺本には郷名の記載を欠く。「延喜式」(兵部省)には伊勢国駅馬として「鈴鹿廿疋」とみえ、高山寺本駅名部にも「鈴鹿」とある。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」所載の郷で、高山寺本には記載がない。諸本とも訓を欠く。「日本地理志料」「大日本地名辞書」ともに「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条にみえる白浜しらはま駅・川上かわかみ駅を平群郡白浜郷・川上郷に置かれたとし、駅家郷を別郷とはみていない。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」所載の郷で、同書高山寺本に記載がなく、東急本・名博本・元和古活字本にはみえる。葛飾郡内で古代の東海道の駅といえば「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条にみえる井上いかみ駅が現市川市市川に推定されているので、当郷はこの駅家が発展して独立の郷になったと考えられる。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」高山寺本には記載されない。東急本にみえるが、訓を欠く。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」所載の郷で、訓を欠く。高山寺本にはない。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条の雄野おの駅が当郷にあたると考えられ、前項の重出とみられる。


駅家郷
うまやごう

「和名抄」所載の郷で、訓を欠く。高山寺本になく、東急本は安達郡とする。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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