日本大百科全書(ニッポニカ) 「鍋田晶山」の意味・わかりやすい解説
鍋田晶山
なべたしょうざん
(1788―1858)
磐城(いわき)平(たいら)藩中老。名は三善(みつよし)、字(あざな)は子行、通称舎人(とねり)、晶山はその号。家老職を務めた父三房(みつふさ)の影響を受け学問を好み、兵学者清水赤城(しみずせきじょう)の門に入った。江戸・大塚の平藩下屋敷に住み、平(福島県いわき市)の邸は田町にあった。1814年(文化11)地図作成の藩命を受け平に移り、28年(文政11)に『改正陸奥(むつ)磐城四郡疆界(きょうかい)路程全図』を完成させた。41年(天保12)6月大塚の住居が火災にあい、大著『磐城志』10巻の稿本や多くの収集資料を失ったが、『赤穂(あこう)義人纂書(さんしょ)』の資料探索は晩年まで続いた。渡辺崋山(かざん)、屋代弘賢(やしろひろかた)、藤田東湖(とうこ)、小宮山楓軒(こみやまふうけん)(昌秀(まさひで))など交友の広さとその博識とは当時類をみない。57年(安政4)70歳で隠居。翌安政(あんせい)5年3月11日没。雑司ヶ谷(ぞうしがや)・法明(ほうみょう)寺に葬られた。
[小野一雄]