デジタル大辞泉 「小宮山楓軒」の意味・読み・例文・類語 こみやま‐ふうけん【小宮山楓軒】 [1764~1840]江戸後期の儒学者・民政家。常陸ひたちの人。名は昌秀。通称、次郎右衛門。立原翠軒に師事し、彰考館員となり、農政・歴史に通じた。著「農政座右」「垂統大記」など。 出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例 Sponserd by
精選版 日本国語大辞典 「小宮山楓軒」の意味・読み・例文・類語 こみやま‐ふうけん【小宮山楓軒】 江戸後期の漢学者。水戸藩士。昌徳の子。名は昌秀。通称次郎右衛門。立原翠軒に師事し彰考館に入り、「大日本史」の編纂に参加する。のち藩主治保の侍読、常陸国行方郡紅葉村以下一四か村の郡奉行、町奉行、側用人を歴任。治績大いにあがって、村民から慈父のように慕われた。農政、歴史に通じ、「垂統大記」「農政座右」「楓軒偶記」「耆旧得聞」など多くの著がある。明和元~天保一一年(一七六四‐一八四〇) 出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例 Sponserd by
デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「小宮山楓軒」の解説 小宮山楓軒 こみやま-ふうけん 1764-1840 江戸時代中期-後期の武士,儒者。明和元年生まれ。小宮山東湖の長男。常陸(ひたち)水戸藩士。立原翠軒(たちはら-すいけん)にまなび,彰考館で「大日本史」の編修に従事。寛政11年郡(こおり)奉行となり,植林をすすめるなど窮乏する農村の救済につくす。のち町奉行,側用人をつとめた。天保(てんぽう)11年3月2日死去。77歳。名は昌秀。字(あざな)は子実。通称は次郎衛門,造酒之介。編著に「農政座右」「水府志料」など。 出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例 Sponserd by
世界大百科事典(旧版)内の小宮山楓軒の言及 【小宮山昌秀】より …江戸後期の水戸藩の学者,民政家。通称は次郎右衛門,のち楓軒と号した。1783年(天明3)彰考館に入り,16年間《大日本史》編纂に尽力。99年(寛政11)南郡の郡奉行に抜擢されて以後は民政に当たること21年の長きに及び,殖産勧農の策を実施して窮乏する農村の救済に顕著な成果をあげた。《垂統大記》《水府志料》《楓軒文書纂》など農政・歴史に関する編著も多い。【鈴木 暎一】… ※「小宮山楓軒」について言及している用語解説の一部を掲載しています。 出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」 Sponserd by