日本大百科全書(ニッポニカ) 「鍾会」の意味・わかりやすい解説
鍾会
しょうかい
(225―264)
中国、三国魏(ぎ)の武将。字(あざな)は士季(しき)。潁川(えいせん)郡長社(ちょうしゃ)県(現河南(かなん)省長葛(ちょうかつ)県の北東)の人、魏の太傅(たいふ)である鍾繇(しょうよう)の末子。司馬師(しばし)の軍師として毌丘倹(かんきゅうけん)の討伐に活躍、司馬師が卒すると、全権を引き継いだ司馬昭(しばしょう)のもとで引き続き作戦を担当する。諸葛誕(しょかつたん)の乱の際には、喪中にもかかわらず、いち早く司馬昭のもとにかけつけ、軍師として反乱の鎮圧に活躍した。また、反司馬氏思想の弾圧につとめ、「竹林(ちくりん)の七賢(しちけん)」の一人で、曹室と婚姻関係をもつ嵆康(けいこう)を死刑に追い込んだ。のち蜀(しょく)を征討するが、姜維(きょうい)が立てこもる剣閣(けんかく)を落とせなかった。この間に成都(せいと)で劉禅(りゅうぜん)を降服させた鄧艾(とうがい)を、讒言(ざんげん)により失脚させ全軍を掌握した。遠征軍と旧蜀軍という巨大な軍隊を指揮下に置き、野心が芽生えた鍾会は、「失敗しても蜀を保持すれば、劉備(りゅうび)にはなることができる」と、旧蜀臣の姜維と結び魏に対して反乱を起こした。しかし、配下の胡烈(これつ)たちはこれに従わず、姜維もろとも鍾会を殺害した。
[渡邉義浩]
『渡邉義浩著『「三国志」軍師34選』(PHP文庫)』