鎌倉幕府の首長をさす言葉。用例は,早く「吾妻鏡」寿永元年(1182)5月25日条にある治承6年(寿永元)5月日付文書にみえる。また関東下知状(げちじょう)など鎌倉幕府公式文書は,「鎌倉殿の仰」によって発給された形式をとる。主従結合の面から,従者である御家人に対する主君という私的性格とともに,朝廷から任じられた諸国守護の統率者という公的性格をもつ。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…さらに92年には頼朝は征夷大将軍に任命された。初期の幕府の政治機関には,侍所のほか,公文所(くもんじよ)(のち政所(まんどころ)と改称),問注所があったが,これらの機関のわくを超えて鎌倉殿(将軍)頼朝の独裁が強く作用していた。地方では京都に京都守護,九州に鎮西(ちんぜい)奉行,藤原氏滅亡後の奥州に奥州総奉行を置いた。…
…一般に武家社会における主君の家臣に与える恩恵・保護と家臣の主君に対する奉仕・忠節の封建的な主従関係をいう。源氏の家長とその譜代の家人である東国武士との間の私的な主従関係が鎌倉幕府の成立により鎌倉殿(将軍)と御家人間の半ば公的な主従関係となる。この場合鎌倉殿の御恩とは,守護・地頭職の補任,所領の給与(恩領という),相伝私領の確認(本領安堵という),朝廷に対する官位の推薦,所領相論に際して領家の非法よりの保護等であり,御家人の奉公とは戦陣に臨んで身命を捨てて忠勤をはげむことを第1に,平時の軍役たる京都大番役,鎌倉大番役,篝屋(かがりや)番役,警固役,供奉随兵役等,そして関東公事(くうじ)とよばれる将軍御所修造役等数々の経済的負担等であった。…
…ここに征夷大将軍は東国支配の性格をもつ職となり,義仲を滅ぼした頼朝もこの職を望んだが,法皇はこれを許さず,92年(建久3)法皇の没後,頼朝は征夷大将軍に任じられた。鎌倉幕府では御家人の主人である鎌倉殿が,朝廷によって征夷大将軍に任じられ,征夷大将軍は武家の棟梁を意味するようになるが,当初は鎌倉殿と征夷大将軍とは必ずしも不可分に結びついてはいない。頼朝は94年に征夷大将軍を辞任したし(朝廷は辞任を認めなかったが),源頼家が征夷大将軍に任じられたのは,頼朝のあとをついで鎌倉殿となって3年後である。…
※「鎌倉殿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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