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鎌倉公方 かまくらくぼう

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

鎌倉公方
かまくらくぼう

室町幕府が設置した鎌倉府の首長。鎌倉殿,鎌倉御所関東公方,関東御所ともいう。足利尊氏の二男足利基氏が正平4=貞和5 (1349) 年主として関東支配のために鎌倉に移ったのに始まる。その後足利氏満足利満兼足利持氏足利成氏と世襲され,康正1 (1455) 年成氏が古河 (こが) に移るまで続いた。

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デジタル大辞泉の解説

かまくら‐くぼう〔‐クバウ〕【鎌倉公方】

室町時代、鎌倉府において関東8か国と伊豆甲斐を合わせた10か国を支配した足利(あしかが)氏の称。基氏から、成氏(しげうじ)古河(こが)に移るまで代々世襲した。関東公方。鎌倉御所。鎌倉殿。→鎌倉府

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百科事典マイペディアの解説

鎌倉公方【かまくらくぼう】

室町幕府が東国支配のために置いた鎌倉府の長官。関東公方ともいう。1336年京都に幕府を開いた足利尊氏は,嫡子義詮(よしあきら)を鎌倉にとどめ鎌倉御所(鎌倉公方)とし,そのもとに関東管領を置いて義詮を補佐させた。
→関連項目足利氏足利成氏足利持氏足利基氏足利義持小山田荘公方執事浄妙寺

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世界大百科事典 第2版の解説

かまくらくぼう【鎌倉公方】

室町幕府による東国支配のために鎌倉に置かれた政庁である鎌倉府の長官。関東公方(くぼう)ともいう。足利氏の東国支配は,1333年(元弘3)12月建武政権下で足利直義が〈関東十ヵ国〉(相模,武蔵,上野,下野,上総,下総,安房,常陸,伊豆,甲斐)の支配をゆだねられ後醍醐天皇の皇子成良親王を奉じて鎌倉に入ったことにはじまる(鎌倉将軍府)。足利尊氏は,36年(延元1∥建武3)11月京都に幕府を開いたが,その嫡子義詮を鎌倉にとどめ,これを〈鎌倉御所(鎌倉公方)〉とし,そのもとに関東管領を配置して東国の政治一般にあたらせた。

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大辞林 第三版の解説

かまくらくぼう【鎌倉公方】

室町時代、鎌倉府の長官として関東を支配した足利氏の称。1349年に足利尊氏の二男基氏が任じられて以来、代々その子孫が世襲。永享の乱で衰え、1455年成氏が幕府にそむき古河に移ってから古河公方と称し、幕府からの堀越公方に対立した。関東公方。鎌倉御所。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

鎌倉公方
かまくらくぼう

室町幕府の職名。関東公方ともいい、幕府の地方行政機関である鎌倉府を統轄した。初め足利尊氏(あしかがたかうじ)の嫡子義詮(よしあきら)が鎌倉に着任し統治していたが、1349年(正平4・貞和5)義詮の弟基氏(もとうじ)が、いわゆる鎌倉公方に就任し、以後その子孫(氏満(うじみつ)、満兼(みつかね)、持氏(もちうじ))がこの職を世襲した。歴代の公方とも将軍への対抗意識が強く、また鎌倉府の領国に対する主要な権限を幕府に握られていたため、その争奪をめぐってしばしば争いを繰り返していた。持氏の代になると、それに加えて将軍義持(よしもち)の継嗣(けいし)に選ばれなかったこともあり、新将軍義教(よしのり)への不満を公然と表した。そのため幕府の追討を受けることとなり、持氏は敗死し鎌倉公方は一時とぎれた(永享(えいきょう)の乱)。ついで鎌倉府家臣らの要請で持氏の子成氏(しげうじ)が公方に就任したが、関東管領(かんれい)上杉憲忠(のりただ)を殺害した結果、幕府の追討を受け、成氏は1455年(康正1)下総古河(しもうさこが)(茨城県古河市)に根拠地を移した。以後成氏とその子孫は古河公方と称するようになり、鎌倉公方の名称は消滅した。[小要 博]
『渡辺世祐著『関東中心足利時代之研究』(1971・新人物往来社) ▽『神奈川県史 通史編1 原始・古代・中世』(1981・財団法人神奈川県弘済会)』

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世界大百科事典内の鎌倉公方の言及

【足利基氏】より

…足利尊氏の子。1349年(正平4∥貞和5)兄義詮に代わって鎌倉の主となり,初代の鎌倉公方(くぼう)となる。養父直義の政治的影響を強く受ける。…

【鎌倉府】より

…室町幕府によって〈関東十ヶ国〉(いわゆる関八州と伊豆,甲斐を加えた10ヵ国)支配のために鎌倉公方(くぼう)足利氏を頂点として組織された政庁。関東府ともいう。…

【公方】より

…これは北条氏の幕府内部での勢力が強大になり,得宗およびその御内人(みうちびと)と御家人との摩擦が強まる過程で,得宗や〈御内〉と将軍とを区別する意図で,多少とも意識的に使われた形跡があり,おそらく安達泰盛の関与があったものと推定される。しかしこののち,鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府を通じて将軍を公方とよぶ用法が定着し,さらに鎌倉府の足利基氏の子孫も関東公方,鎌倉公方,さらにその分裂後は古河公方,堀越公方といわれ,鎌倉から奥州に下ったその一族も稲村公方,篠川公方とよばれた。 一方これとは別に,鎌倉後期以降,荘園・公領の下地に対する寺社本所,あるいは地頭の一円支配が進行するとともに,そうした一円化した荘園・公領の支配者を公方とよぶ用例が急速に増加しはじめる。…

【駿河国】より

…駿河守護今川氏は室町幕府将軍家と密接な関係にあり,明徳の乱や応永の乱で泰範は駿遠両国の兵を率いて将軍義満のもとに馳せ参じた。またとくに関八州に伊豆,甲斐の10ヵ国を統轄していた鎌倉公方の監視という任務も負っており,上杉禅秀の乱の鎮圧に範政が活躍するなどで,幕府の信頼はあつかった。将軍義満や義教は富士遊覧の名目で鎌倉公方への威圧を目的に,駿河へ下ったこともある。…

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