鎌倉公方(読み)かまくらくぼう

精選版 日本国語大辞典 「鎌倉公方」の意味・読み・例文・類語

かまくら‐くぼう ‥クバウ【鎌倉公方】

〘名〙 室町時代鎌倉府関東八か国(武蔵・相模下総上総安房常陸・上野・下野)と伊豆甲斐を合わせた一〇か国(一時は陸奥出羽も含む)を支配した足利氏の称。貞和五年(一三四九)尊氏の子基氏が兄義詮(よしあきら)にかわって鎌倉にはいってから、その子孫が世襲した。持氏の代に永享の乱によって衰退。康正元年(一四五五)、その子成氏(しげうじ)が下総古河に移ってからは古河公方と称して、関東に下向して堀越公方と称した将軍義政の弟政知(まさとも)対立した。関東公方鎌倉殿鎌倉御所関東管領。かまくらおおやけがた。

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デジタル大辞泉 「鎌倉公方」の意味・読み・例文・類語

かまくら‐くぼう〔‐クバウ〕【鎌倉公方】

室町時代、鎌倉府において関東8か国と伊豆甲斐を合わせた10か国を支配した足利あしかが氏の称。基氏から、成氏しげうじ古河こがに移るまで代々世襲した。関東公方。鎌倉御所。鎌倉殿。→鎌倉府

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百科事典マイペディア 「鎌倉公方」の意味・わかりやすい解説

鎌倉公方【かまくらくぼう】

室町幕府が東国支配のために置いた鎌倉府の長官。関東公方ともいう。1336年京都に幕府を開いた足利尊氏は,嫡子義詮(よしあきら)を鎌倉にとどめ鎌倉御所(鎌倉公方)とし,そのもとに関東管領を置いて義詮を補佐させた。1349年尊氏の弟直義の失脚後,その地位を義詮が継ぐこととなり上京,代わって義詮の弟基氏が鎌倉公方に就任した。観応の擾乱後,一時尊氏が鎌倉に滞在して直接東国統治を行ったが,尊氏退去後は再び基氏が鎌倉公方として政務をとった。1363年上杉憲顕(のりあき)が関東管領となり,上杉氏を中軸とする鎌倉府体制の基礎が固まった。基氏の後を継いだ氏満の時代になると,鎌倉公方の権力は北関東の豪族層にも及ぶようになった。1380年から十数年にわたって起きた下野小山氏の乱を鎮圧した氏満は,自らを〈天子ノ御代官〉と位置づけ,東国における独自の国家体制を確立させた。1392年氏満は将軍足利義満から陸奥・出羽両国の管轄権を譲られた。1398年氏満の後を継いだ満兼は,翌年奥州支配を固めるため弟満貞・満直をそれぞれ稲村・篠川に派遣した。1409年満兼は死去,その後を嫡子持氏が継いだ。上杉禅秀の乱では幕府は持氏を援助したが,乱後幕府と持氏の間が不和となり,1428年足利義教が将軍となってからは京・鎌倉間の対立はいっそう激化した。鎌倉府内部でも幕府との協調を説く関東管領上杉憲実(のりざね)と持氏の不和が顕在化し,永享の乱が勃発した。その後幕府方と持氏方との合戦が繰り返され,持氏方は各地で敗れ謀反も相次いだ。1439年持氏は自害,鎌倉公方は滅亡した。1447年持氏の遺子成氏(しげうじ)によって鎌倉公方は復活するが,享徳の乱で下総古河に居を移し古河公方となった。幕府は新たに足利政知を鎌倉公方に任じたが,鎌倉に入部できず伊豆堀越にとどまり,堀越公方と称された。1491年政知の死により名実ともに鎌倉公方は消滅した。→稲村御所
→関連項目足利氏足利成氏足利持氏足利基氏足利義持小山田荘公方執事浄妙寺

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「鎌倉公方」の意味・わかりやすい解説

鎌倉公方
かまくらくぼう

室町幕府の職名。関東公方ともいい、幕府の地方行政機関である鎌倉府を統轄した。初め足利尊氏(あしかがたかうじ)の嫡子義詮(よしあきら)が鎌倉に着任し統治していたが、1349年(正平4・貞和5)義詮の弟基氏(もとうじ)が、いわゆる鎌倉公方に就任し、以後その子孫(氏満(うじみつ)、満兼(みつかね)、持氏(もちうじ))がこの職を世襲した。歴代の公方とも将軍への対抗意識が強く、また鎌倉府の領国に対する主要な権限を幕府に握られていたため、その争奪をめぐってしばしば争いを繰り返していた。持氏の代になると、それに加えて将軍義持(よしもち)の継嗣(けいし)に選ばれなかったこともあり、新将軍義教(よしのり)への不満を公然と表した。そのため幕府の追討を受けることとなり、持氏は敗死し鎌倉公方は一時とぎれた(永享(えいきょう)の乱)。ついで鎌倉府家臣らの要請で持氏の子成氏(しげうじ)が公方に就任したが、関東管領(かんれい)上杉憲忠(のりただ)を殺害した結果、幕府の追討を受け、成氏は1455年(康正1)下総古河(しもうさこが)(茨城県古河市)に根拠地を移した。以後成氏とその子孫は古河公方と称するようになり、鎌倉公方の名称は消滅した。

[小要 博]

『渡辺世祐著『関東中心足利時代之研究』(1971・新人物往来社)』『『神奈川県史 通史編1 原始・古代・中世』(1981・財団法人神奈川県弘済会)』

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世界大百科事典 第2版 「鎌倉公方」の意味・わかりやすい解説

かまくらくぼう【鎌倉公方】

室町幕府による東国支配のために鎌倉に置かれた政庁である鎌倉府の長官。関東公方(くぼう)ともいう。足利氏の東国支配は,1333年(元弘3)12月建武政権下で足利直義が〈関東十ヵ国〉(相模,武蔵,上野,下野,上総,下総,安房,常陸,伊豆,甲斐)の支配をゆだねられ後醍醐天皇の皇子成良親王を奉じて鎌倉に入ったことにはじまる(鎌倉将軍府)。足利尊氏は,36年(延元1∥建武3)11月京都に幕府を開いたが,その嫡子義詮を鎌倉にとどめ,これを〈鎌倉御所(鎌倉公方)〉とし,そのもとに関東管領を配置して東国の政治一般にあたらせた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「鎌倉公方」の解説

鎌倉公方
かまくらくぼう

鎌倉御所・鎌倉殿・関東御所・関東公方とも。室町幕府が東国統治のためにおいた鎌倉府の首長。足利尊氏は京都に幕府を開いたが,嫡子義詮(よしあきら)を鎌倉にとどめて鎌倉御所とした。1349年(貞和5・正平4)義詮が上京すると弟基氏(もとうじ)があとをつぎ,以後子孫の氏満・満兼・持氏・成氏(しげうじ)と世襲された。幕府からしだいに諸権限を移管され,幕府とは独立して関東支配を行うようになった反面,氏満以降しばしば謀反を企て将軍職への野心をみせ,将軍との対立を深めた。持氏のとき,永享の乱で将軍義教・関東管領上杉憲実と衝突し滅亡。義教の横死後,持氏の遺児成氏は許されいったん鎌倉公方となるが,関東管領上杉憲忠を殺害したため幕府の追討をうけ,1455年(康正元)下総国古河(こが)(現,茨城県古河市)に逃れ,古河公方を称した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「鎌倉公方」の意味・わかりやすい解説

鎌倉公方
かまくらくぼう

室町幕府が設置した鎌倉府の首長。鎌倉殿,鎌倉御所,関東公方,関東御所ともいう。足利尊氏の二男足利基氏が正平4=貞和5 (1349) 年主として関東支配のために鎌倉に移ったのに始まる。その後足利氏満足利満兼足利持氏足利成氏と世襲され,康正1 (1455) 年成氏が古河 (こが) に移るまで続いた。 (→古河公方 )

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旺文社日本史事典 三訂版 「鎌倉公方」の解説

鎌倉公方
かまくらくぼう

室町時代,鎌倉府の長官
鎌倉御所・鎌倉殿ともいう。1349年足利尊氏の4男基氏が,兄義詮 (よしあきら) の上洛後,関東の主として鎌倉に入ってから,以後その子孫が世襲し,1455年成氏が古河 (こが) に移るまでの鎌倉府の長官をいう。また執事の上杉氏を関東管領とした。成氏からは古河公方という。

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世界大百科事典内の鎌倉公方の言及

【足利基氏】より

…足利尊氏の子。1349年(正平4∥貞和5)兄義詮に代わって鎌倉の主となり,初代の鎌倉公方(くぼう)となる。養父直義の政治的影響を強く受ける。…

【鎌倉府】より

…室町幕府によって〈関東十ヶ国〉(いわゆる関八州と伊豆,甲斐を加えた10ヵ国)支配のために鎌倉公方(くぼう)足利氏を頂点として組織された政庁。関東府ともいう。…

【公方】より

…これは北条氏の幕府内部での勢力が強大になり,得宗およびその御内人(みうちびと)と御家人との摩擦が強まる過程で,得宗や〈御内〉と将軍とを区別する意図で,多少とも意識的に使われた形跡があり,おそらく安達泰盛の関与があったものと推定される。しかしこののち,鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府を通じて将軍を公方とよぶ用法が定着し,さらに鎌倉府の足利基氏の子孫も関東公方,鎌倉公方,さらにその分裂後は古河公方,堀越公方といわれ,鎌倉から奥州に下ったその一族も稲村公方,篠川公方とよばれた。 一方これとは別に,鎌倉後期以降,荘園・公領の下地に対する寺社本所,あるいは地頭の一円支配が進行するとともに,そうした一円化した荘園・公領の支配者を公方とよぶ用例が急速に増加しはじめる。…

【駿河国】より

…駿河守護今川氏は室町幕府将軍家と密接な関係にあり,明徳の乱や応永の乱で泰範は駿遠両国の兵を率いて将軍義満のもとに馳せ参じた。またとくに関八州に伊豆,甲斐の10ヵ国を統轄していた鎌倉公方の監視という任務も負っており,上杉禅秀の乱の鎮圧に範政が活躍するなどで,幕府の信頼はあつかった。将軍義満や義教は富士遊覧の名目で鎌倉公方への威圧を目的に,駿河へ下ったこともある。…

※「鎌倉公方」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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