室町幕府による東国支配のために鎌倉に置かれた政庁である鎌倉府の長官。関東公方(くぼう)ともいう。足利氏の東国支配は,1333年(元弘3)12月建武政権下で足利直義が〈関東十ヵ国〉(相模,武蔵,上野,下野,上総,下総,安房,常陸,伊豆,甲斐)の支配をゆだねられ後醍醐天皇の皇子成良親王を奉じて鎌倉に入ったことにはじまる(鎌倉将軍府)。足利尊氏は,36年(延元1・建武3)11月京都に幕府を開いたが,その嫡子義詮を鎌倉にとどめ,これを〈鎌倉御所(鎌倉公方)〉とし,そのもとに関東管領を配置して東国の政治一般にあたらせた。その政治組織を鎌倉府といい,あたかも小幕府の観をなした。幼少の義詮を補佐した関東管領(高氏や上杉氏)は,もっぱら京都の尊氏や直義の〈仰〉を受けて行動し,東国内での北畠親房に代表される南朝勢力の打倒に奔走した。その後の幕府内部の尊氏と直義の対立は,鎌倉府内にも波及し,直義の信任がとくに厚かった上杉憲顕と尊氏派に属する高氏の関東管領二人制を生んだりした。
49年(正平4・貞和5)8月の高師直のクーデタの結果,直義は失脚し,幕府内での直義の地位は義詮に譲られることとなった。それにともない義詮は上京し,代わって弟の基氏が鎌倉に下向し鎌倉公方に就任した。観応の擾乱(じようらん)の勃発にともない直義は上杉氏の支援を得て東国を基盤に尊氏と対決しようとし鎌倉に入ったが,戦いに敗れ,52年(正平7・文和1)2月毒殺された。直義に代わって鎌倉を手中に収めた尊氏は,54年7月まで鎌倉に滞在して直接東国の統治を行った。その間,尊氏は,一時南朝の新田義興らに鎌倉を追われることもあった。尊氏は,鎌倉を去るに際して基氏を武蔵入間川に派遣し,また関東管領に腹心の畠山国清を補任して東国の南朝勢力や旧直義勢力の動きに備えさせた。ふたたび鎌倉公方として政務をとった基氏は,58年(正平13・延文3)10月東国の南朝勢力の中心たる新田義興を武蔵矢口ノ渡で謀殺し,事実上東国の南朝勢力を壊滅せしめた。また61年(正平16・康安1)には,東国武士に不評な関東管領畠山国清を伊豆に追放し,その後の63年(正平18・貞治2)に東国武士の間で信望の厚かった上杉憲顕を越後から招いて関東管領に就かしめ,上杉氏を中軸とする鎌倉府体制の基礎を固めた。基氏は,それから間もなくの67年4月に死去し,その子金王丸が鎌倉公方を継いだ。
金王丸は,その後将軍義満の偏諱(へんき)を得て元服し氏満と称した。これ以後,鎌倉公方は将軍の偏諱を得て元服するのが慣例となった。また基氏の子氏満が鎌倉公方を継ぐに及んで,本来その任免権は将軍の保持するところであったが,事実上関東足利氏によって世襲されることとなった。この鎌倉公方の交代を契機に,上杉憲顕の関東管領化にみられるような上杉氏勢力の強大化に反対する宇都宮氏綱や武州平一揆らが反乱をおこしたが,上杉氏らによって間もなく鎮圧された。氏満は,79年(天授5・康暦1)京都における管領細川頼之をめぐる康暦の政変に関与し京都への志向性もみられたが,関東管領上杉憲春の諫死でもって思いとどまった。また氏満の時代になると,鎌倉公方の権力も北関東の伝統的な豪族層にも及ぶようになり,その結果それに反発する下野小山氏の乱もおこった。この反乱は,80年から十数年に及ぶ本格的な反乱であった。しかし,氏満は,この反乱を鎮圧することにより,その権力を制度的にも安定させ,みずからを〈天子ノ御代官〉と位置づける東国における独自の国家体制を確立することを可能にさせた。
92年(明徳3)将軍義満はこの氏満に陸奥・出羽両国の管轄権を譲ったが,実質的に両国が鎌倉府によって管轄されるのは,つぎの満兼の時代であった。満兼は,父氏満の98年(応永5)11月の死を受けて鎌倉公方に就任した。満兼は,まずその翌年に弟満貞・満直をそれぞれ稲村・篠川(ささがわ)に派遣して奥州支配を固めようとした。これが稲村御所と篠川御所である。満兼は,99年西国で反幕府の乱(応永の乱)をおこした大内義弘に呼応して,義満打倒の軍事行動をおこそうとしたが,関東管領上杉朝宗の諫言と義弘の敗死で思いとどまった。しかし,こうした京・鎌倉間の不和は,奥州での伊達政宗の乱のように幕府と結びついて鎌倉府の支配に抵抗するような存在を生み出すこととなった。満兼は,1409年7月に死去し,その跡は嫡子持氏が継いだ。
持氏が最初に直面したのは,16年10月の上杉禅秀の乱であった。これは,前の関東管領上杉禅秀(氏憲)が将軍義持の弟義嗣や持氏の叔父満隆らと気脈を通じておこした反乱であったが,専制的支配を強める鎌倉公方に反対する広範な諸勢力を結集しえた点で,東国における本格的な内乱のはじまりであった。持氏は一時鎌倉を逃れ駿河に逃避したが,禅秀の鎌倉府掌握に危機感をいだいた幕府が駿河の守護今川氏らをして持氏を援助せしめたので,持氏はふたたび鎌倉を回復することに成功し,反乱を鎮圧した。持氏は,その直後から各地の禅秀与党の討伐をはじめた。ただ禅秀与党の人々の多くは,それ以前から幕府と密接な交渉をもった京都扶持衆と呼ばれる人々であったので,その討伐は必然的に幕府の持氏に対する疑惑を招く結果となった。時の将軍義持が28年(正長1)1月に死去し,新たに義教が還俗して将軍となってからは,京・鎌倉間の対立は激化の途を歩んだ。持氏は,義持の猶子の扱いを受けて将軍職に望みをかけていたといわれ,それゆえか義教の将軍就任を喜ばず,京都の改元に従わず旧年号を襲用したり,将軍の保持する鎌倉五山住持の任命権を無視して,勝手に住持を任命したり,また足利荘などの幕府の御料所を押領するなどの行動をとった。この段階の対立は,32年(永享4)にともかくも京・鎌倉間の無事を願う管領斯波義淳・前管領畠山満家と関東管領上杉憲実という双方の管領の努力によって一時的な解消をみた。しかし,その後も将軍義教は,周囲の反対を押し切って駿河に下り富士遊覧を決行するなど持氏に威圧を加え続けた。それに対して,持氏も34年3月に鶴岡八幡宮に大勝金剛尊の等身像を造立し,血書の願文をささげて重大な決意を表明した。
そのころになると幕府は,鎌倉府管轄国と境をなす越後・信濃・駿河などの守護らと接触して鎌倉府包囲網を整備しつつあった。そうした鎌倉府管轄圏外の信濃で36年守護小笠原氏と国人村上氏の対立がおこるや,持氏は関東管領上杉憲実の反対を無視して村上氏を援助し,将軍義教を挑発した。一方では,その翌年ふたたび持氏が信濃の内紛に干渉し軍を進めようとするや,それが憲実退治のためのものとの風聞がたつほどに,鎌倉府内部での幕府との協調を説く憲実と持氏の不和が顕在化しつつあった。そのうえ,38年6月には,持氏はやはり憲実の反対を振り切って先例に反して京都将軍の偏諱を得ずして嫡子賢王丸を鶴岡八幡宮で元服せしめ義久と名のらせた。その直後の8月にまたもや持氏による憲実討伐の風聞がたったため,憲実はついに鎌倉を去り,守護分国上野に走った。持氏は,それを追ってみずから武蔵府中に陣を進めた。これ以前から憲実から諸種連絡を受けていた幕府は,この機をとらえて諸将に持氏追討を命じた。永享の乱の勃発であった。その後,幕府方と持氏方との合戦が箱根や小田原などでくり返されたが,持氏方は各地で敗れ,持氏に背くものが相ついだ。その間に鎌倉をあずかる三浦氏も持氏を裏切り,鎌倉に火をかけた。こうした様子をみて敗北を悟った持氏は,鎌倉に戻り剃髪して恭順の意を表し永安寺にこもった。憲実は,将軍義教に持氏の助命を請うたが,許されず,39年2月持氏を自害に追いやった。鎌倉公方は,ここに滅んだ。
その後,鎌倉公方は,結城合戦をへて49年(宝徳1)に持氏の遺子成氏によって復活をみたが,成氏は54年(享徳3)12月関東管領上杉憲忠を謀殺したことで,幕府から追討を受ける身となり(享徳の乱),下総古河に居を移し,古河公方となった。幕府は,成氏に代えて新たに鎌倉公方に足利政知を任じ,軍事統率権や土地安堵権などの諸権限を授けて鎌倉に下向せしめたが,鎌倉に入部することができず伊豆堀越(ほりごえ)にとどまった。それゆえ,政知は,堀越公方と称された。その威命は,相模・伊豆などに限定され,もはや東国全体に及ぶものではなかった。その堀越公方も,91年(延徳3)4月の政知の死で事実上消滅した。ここに名実ともに室町幕府の東国支配のかなめとしての鎌倉公方は消滅したのであった。
執筆者:佐藤 博信
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室町幕府の職名。関東公方ともいい、幕府の地方行政機関である鎌倉府を統轄した。初め足利尊氏(あしかがたかうじ)の嫡子義詮(よしあきら)が鎌倉に着任し統治していたが、1349年(正平4・貞和5)義詮の弟基氏(もとうじ)が、いわゆる鎌倉公方に就任し、以後その子孫(氏満(うじみつ)、満兼(みつかね)、持氏(もちうじ))がこの職を世襲した。歴代の公方とも将軍への対抗意識が強く、また鎌倉府の領国に対する主要な権限を幕府に握られていたため、その争奪をめぐってしばしば争いを繰り返していた。持氏の代になると、それに加えて将軍義持(よしもち)の継嗣(けいし)に選ばれなかったこともあり、新将軍義教(よしのり)への不満を公然と表した。そのため幕府の追討を受けることとなり、持氏は敗死し鎌倉公方は一時とぎれた(永享(えいきょう)の乱)。ついで鎌倉府家臣らの要請で持氏の子成氏(しげうじ)が公方に就任したが、関東管領(かんれい)上杉憲忠(のりただ)を殺害した結果、幕府の追討を受け、成氏は1455年(康正1)下総古河(しもうさこが)(茨城県古河市)に根拠地を移した。以後成氏とその子孫は古河公方と称するようになり、鎌倉公方の名称は消滅した。
[小要 博]
『渡辺世祐著『関東中心足利時代之研究』(1971・新人物往来社)』▽『『神奈川県史 通史編1 原始・古代・中世』(1981・財団法人神奈川県弘済会)』
鎌倉御所・鎌倉殿・関東御所・関東公方とも。室町幕府が東国統治のためにおいた鎌倉府の首長。足利尊氏は京都に幕府を開いたが,嫡子義詮(よしあきら)を鎌倉にとどめて鎌倉御所とした。1349年(貞和5・正平4)義詮が上京すると弟基氏(もとうじ)があとをつぎ,以後子孫の氏満・満兼・持氏・成氏(しげうじ)と世襲された。幕府からしだいに諸権限を移管され,幕府とは独立して関東支配を行うようになった反面,氏満以降しばしば謀反を企て将軍職への野心をみせ,将軍との対立を深めた。持氏のとき,永享の乱で将軍義教・関東管領上杉憲実と衝突し滅亡。義教の横死後,持氏の遺児成氏は許されいったん鎌倉公方となるが,関東管領上杉憲忠を殺害したため幕府の追討をうけ,1455年(康正元)下総国古河(こが)(現,茨城県古河市)に逃れ,古河公方を称した。
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…室町幕府によって〈関東十ヶ国〉(いわゆる関八州と伊豆,甲斐を加えた10ヵ国)支配のために鎌倉公方(くぼう)足利氏を頂点として組織された政庁。関東府ともいう。…
…これは北条氏の幕府内部での勢力が強大になり,得宗およびその御内人(みうちびと)と御家人との摩擦が強まる過程で,得宗や〈御内〉と将軍とを区別する意図で,多少とも意識的に使われた形跡があり,おそらく安達泰盛の関与があったものと推定される。しかしこののち,鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府を通じて将軍を公方とよぶ用法が定着し,さらに鎌倉府の足利基氏の子孫も関東公方,鎌倉公方,さらにその分裂後は古河公方,堀越公方といわれ,鎌倉から奥州に下ったその一族も稲村公方,篠川公方とよばれた。 一方これとは別に,鎌倉後期以降,荘園・公領の下地に対する寺社本所,あるいは地頭の一円支配が進行するとともに,そうした一円化した荘園・公領の支配者を公方とよぶ用例が急速に増加しはじめる。…
…駿河守護今川氏は室町幕府将軍家と密接な関係にあり,明徳の乱や応永の乱で泰範は駿遠両国の兵を率いて将軍義満のもとに馳せ参じた。またとくに関八州に伊豆,甲斐の10ヵ国を統轄していた鎌倉公方の監視という任務も負っており,上杉禅秀の乱の鎮圧に範政が活躍するなどで,幕府の信頼はあつかった。将軍義満や義教は富士遊覧の名目で鎌倉公方への威圧を目的に,駿河へ下ったこともある。…
※「鎌倉公方」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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