日本歴史地名大系 「鎌倉町」の解説 鎌倉町かまくらちよう 東京都:千代田区旧神田区地区鎌倉町[現在地名]千代田区内神田(うちかんだ)一―二丁目三河(みかわ)町一丁目の東に位置する町屋で片側町。南は外堀、東は竜閑(りゆうかん)町、北は新革屋(しんかわや)町代地・松下(まつした)町一丁目南側代地・同二丁目南側代地・鎌倉横町南側代地。徳川氏による江戸城築城の際に、相模国から運ばれてきた石材を荷揚げしたため南側の堀沿いが鎌倉河岸とよばれ、隣接する当町が鎌倉町と名付けられたという(新撰東京名所図会)。明暦三年(一六五七)の新添江戸之図には「かまくら町」とみえ、寛文新板江戸絵図には南側と東側に「かまくら丁」、北側に神尾・真田伊賀の屋敷が記される。寛政一一年(一七九九)の火災ののち河岸通りが拡幅されたため、町地は北側にあった火除地に移転した(「東京府志料」など)。 鎌倉町かまくらちよう 群馬県:高崎市高崎城下鎌倉町[現在地名]高崎市若松町(わかまつちよう)明治四年(一八七一)赤坂(あかさか)村に成立した町。江戸時代には同村字植竹(うえたけ)であった。高崎から遠堀の橋を渡り、高崎七口の一つ前栽(ぜんざい)町口(下横町口、近代以降鎌倉町口)の木戸を通ると植竹で、聖石(ひじりいし)渡で烏(からす)川を渡り石原(いしはら)村を経て吉井(よしい)(現多野郡吉井町)、富岡への道が通じていた。文化六年(一八〇九)この道と中山道を結ぶ道ができると人家が建つようになり、植横(うえよこ)町とよばれる小路とともに明治四年鎌倉町として独立した。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by