鏑木村(読み)かぶらきむら

日本歴史地名大系 「鏑木村」の解説

鏑木村
かぶらきむら

[現在地名]佐倉市鏑木町かぶらぎまち栄町さかえちよう・鏑木町一―二丁目など

鹿島かしま川の支流高崎たかさき川右岸、佐倉城下周辺を占め南北に分れている。鏑木町とも史料にはみえる。地内皿田さらだ六崎むつさき村・石川いしかわ村・じよう村の入会地で、同地の高崎川には佐倉城下と千葉・東金とうがね方面とを結ぶ皿田さなだ(佐那太橋・真田橋)が架かる。「寛文朱印留」に佐倉藩領として村名がみえ、幕末まで同藩領。元禄郷帳では高四六七石余。寛延二年(一七四九)の佐倉藩領村高覚によれば高四四三石余、夫役永一貫一〇三文余・茶園代永一七文・草刈代金一両・林下刈銭鐚四〇〇文。御用地永引一九石余(諸役御免)・諸役御免七〇石・人馬役御免三五三石余。旧高旧領取調帳によれば海隣かいりん寺領三〇石があった。享保八年(一七二三)村明細帳(岩淵家文書)によると、鍛冶作かじさく松山は鍛冶作御林として佐倉藩有林であった。


鏑木村
かぶらきむら

[現在地名]干潟町鏑木

現干潟町の西端に位置し、下総台地が旧椿つばき海へせり出した台地上に立地する。南は万力まんりき村。中世鏑木郷とみえる。「家忠日記」の天正二〇年(一五九二)一一月四日条などに「かふらき町」とみえる。慶長七年(一六〇二)岡飯田おかいいだ(現小見川町)から江戸へ柑子を献上する際、「かふらき」を経由していた(「人足手形」谷本家文書)。同九年の検地帳(鏑木家文書)には「香取郡北条之庄鏑木之郷」とあり、上田七町五反余・中田九町余・下田七一町六反余、上畑六町九反余・中畑四町二反余・下畑一六町九反余、屋敷三町五反余で、名請人は一二一人。

元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分によれば、一千五七石余で、幕府領と旗本小田切・榊原・原田領および光明こうみよう寺領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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