日本歴史地名大系 「長久館跡」の解説
長久館跡
ちようきゆうかんあと
西の丸跡にあった徳島藩の藩校。最初の長久館は安政三年(一八五六)九月に江戸の徳島藩下屋敷(現東京都中央区)内に設置された(徳島県教育沿革史)。便宜上これを江戸長久館とよんで、のちに徳島に設立される長久館と区別している。学問に熱心であった一三代藩主蜂須賀斉裕が江戸在勤の藩士に文武両面にわたって広く教育を施すために設置した。とくにオランダ式兵法の導入による軍事力強化策に大きな目的があった(蜂須賀家記)。二年後に焼失し、再建されたが、生徒数が減少してしだいに衰微し、元治元年(一八六四)藩士が江戸藩邸を引払い国元に帰るに及んで、廃校となった。この江戸長久館では学校総奉行に年寄役蜂須賀山城が就任し、学科は文武一〇科があり、文事として漢学・洋学・筆学・算事の四科、武事には砲術・練兵・剣術・槍術・馬術・射術の六科があった。教授陣には銃砲術に渡辺央・大類保五郎、練兵術には大鳥圭介、剣術に別所周治・清水小十郎、オランダ語は高鋭一・高畠五郎らがいた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報