芳川顕正
没年:大正9.1.10(1920)
生年:天保12.12.10(1842.1.21)
明治大正期の官僚。徳島県出身。父は原田民部,母は慶子。浅野玄碩より医学を学び,高橋文昨の養嗣子となる。文久2(1862)年以降,長崎で医学修業の傍ら,何礼之,瓜生寅 に英学を学び,伊藤博文と交遊。慶応3(1867)年,鹿児島に赴き,海軍所の賓客として航海,数学,兵学書の翻訳に当たる。明治1(1868)年,芳川と改姓。徳島の洋学教授を経て,3年大蔵省に出仕,翌年にかけて伊藤博文と渡米し貨幣・金融制度調査に従事。帰国後,紙幣頭,工部大丞,工部大書記官,電信局長などを歴任した。12年から翌年にかけてのイギリス出張では万国電信会議に出席。外務少輔,工部少輔を経て,15年から3年間,東京府知事を務め,地区改正や築港に尽力した。その後,内務大輔,内務次官として山県有朋内務卿・内相を補佐。23年,第1次山県内閣の文部大臣となり,教育勅語の制定に関与した。以後,司法,内務,逓信の各大臣を歴任した。この間,宮中顧問官兼内蔵頭,兼帝室会計審査局長,中央衛生会長などとなる。33~37年,貴族院伯爵議員。43年以降一時の中断を除いて枢密顧問官。43年から翌年,国学院大学学長,皇典講究所総裁を務める。45年から大正6(1917)年まで枢密院副議長。長崎時代,英国帰りで会話はできても読み書きが不自由な伊藤博文に英文法を教えたのが,官途につくきっかけとなった。<著作>『越山遺稿』<参考文献>水野秀雄『伯爵芳川顕正小伝』
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
芳川 顕正
ヨシカワ アキマサ
- 肩書
- 枢密院副議長,逓信相,司法相,文相,貴院議員
- 本名
- 芳川 賢吉
- 旧名・旧姓
- 旧姓=原田
- 別名
- 前名=高橋 賢吉 号=越山
- 生年月日
- 天保12年12月10日(1842年)
- 出生地
- 阿波国麻殖郡川田村(徳島県)
- 経歴
- 医師・高橋文昨の養嗣子となるが、のち姓名を芳川賢吉と改める。漢学を修め、長崎で英学、医学を学んだ。明治3年大蔵省に仕官、4年伊藤博文の渡米に随行。帰国後、紙幣頭、工部大書記官、電信局長などを経て、13年外務少輔、15年東京府知事となり市の区画整理を行った。内務次官から23年山県内閣の文相となり、教育勅語の制定に関与する。25年司法相、次いで内務相、逓信相を歴任。その後、33年貴院議員、43年枢密顧問官となり、また国学院大学長も務めた。45年〜大正6年枢密院副議長。明治29年子爵、40年伯爵。
- 没年月日
- 大正9年1月10日
出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
芳川 顕正
ヨシカワ アキマサ
明治・大正期の官僚,政治家,伯爵 枢密院副議長;逓信相;司法相;文相;貴院議員。
- 生年
- 天保12年12月10日(1842年)
- 没年
- 大正9(1920)年1月10日
- 出生地
- 阿波国麻殖郡川田村(徳島県)
- 本名
- 芳川 賢吉
- 旧姓(旧名)
- 原田
- 別名
- 前名=高橋 賢吉,号=越山
- 経歴
- 医師・高橋文昨の養嗣子となるが、のち姓名を芳川賢吉と改める。漢学を修め、長崎で英学、医学を学んだ。明治3年大蔵省に仕官、4年伊藤博文の渡米に随行。帰国後、紙幣頭、工部大書記官、電信局長などを経て、13年外務少輔、15年東京府知事となり市の区画整理を行った。内務次官から23年山県内閣の文相となり、教育勅語の制定に関与する。25年司法相、次いで内務相、逓信相を歴任。その後、33年貴院議員、43年枢密顧問官となり、また国学院大学長も務めた。45年〜大正6年枢密院副議長。明治29年子爵、40年伯爵。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
芳川顕正 (よしかわあきまさ)
生没年:1841-1920(天保12-大正9)
明治・大正期の官僚,政治家。阿波国(徳島県)川田村医師原田民部の四男。高橋家の養子となったが,のち芳川に改姓。幕末長崎に遊学し,医学のち法政学を学ぶ。同所で伊藤博文を知り,1870年(明治3)伊藤の推挙で大蔵省に出仕,同年伊藤に随行しアメリカを視察。のち工部省から内務省に転じ,87年内務次官,90年第1次山県有朋内閣の文相となり,教育勅語の発布に尽力。その後,司法,内務,逓信各大臣を歴任。1910年枢密顧問官,12年には枢密院副議長となった。
執筆者:由井 正臣
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
芳川顕正
よしかわあきまさ
[生]天保12 (1842).12.10. 阿波
[没]1920.1.10. 東京
明治・大正期の官僚,政治家。遊学していた長崎で伊藤博文を知り,伊藤の薦めで 1870年大蔵省に出仕。紙幣頭,工部大丞,外務少輔などを経て,1882年内務少輔兼東京府知事となる。市区改正や上下水道敷設などに尽力。1890年第1次山県有朋内閣の文部大臣となり,教育勅語の制定に関与した。のちの内閣で司法大臣,内務大臣,逓信大臣などを歴任。1900年貴族院議員,1907年伯爵叙爵。1910年枢密顧問官(→枢密院),國學院大學学長,1912年枢密院副議長に就任。
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芳川顕正 よしかわ-あきまさ
1842*-1920 明治-大正時代の官僚,政治家。
天保(てんぽう)12年12月10日生まれ。長崎で英学をまなび,伊藤博文と知りあい,明治3年伊藤の推薦で大蔵省にはいる。東京府知事,内務次官などをへて,第1次山県(やまがた)内閣の文相となり教育勅語の制定に尽力。のち法相,内相,逓信相,枢密院副議長を歴任。大正9年1月10日死去。80歳。阿波(あわ)(徳島県)出身。本姓は原田。号は越山。
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芳川顕正
よしかわあきまさ
1841〜1920
明治・大正時代の官僚政治家
阿波(徳島県)の生まれ。伊藤博文の知遇を得て,官界に入り,のち山県有朋 (ありとも) の腹心の部下となった。東京府知事を経て文部・司法・内務・逓信の各大臣を歴任した。
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芳川 顕正 (よしかわ あきまさ)
生年月日:1842年12月10日
明治時代;大正時代の官僚;政治家。伯爵;枢密顧問官
1920年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の芳川顕正の言及
【教育勅語】より
…翌90年2月に開かれた[地方長官会議]では,いぜんとして民権派の影響や西洋思想の浸透により,徳育が困難な状況にあるとの報告が各地から行われ,この際勅諭の形式で教育方針を示してほしいとの要求が政府に出された。この要求は閣議でとりあげられ,徳育には関心のない榎本武揚の後任文相に内務官僚芳川顕正が任命されたとき,天皇から徳育の基礎となるべき箴言(しんげん)の編纂を命ぜられた。首相山県有朋は〈[軍人勅諭]〉(1882)の発布によって軍隊の思想統制に成功した経験から,教育にも同様の勅諭がほしいとの考えをもっており,文部省にその草案作成を命じた。…
※「芳川顕正」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」