長光寺跡(読み)ちようこうじあと

日本歴史地名大系 「長光寺跡」の解説

長光寺跡
ちようこうじあと

[現在地名]山陽町大字郡 西下津

厚狭川の右岸、西下津(にししもづ)の山すそにあった寺院。寺の参道や本堂敷地を含めた細長い土地の字名を長光寺という。寺地の後方に長光寺山古墳がある。

「寺社由来」所収の由来書によれば、物部氏の一族である厚東介がこの地に善光(ぜんこう)寺(現長野市)の本尊を模した仏像を本尊として新善光(しんぜんこう)寺を建立したのに始まるとする。また正和二年(一三一三)厚狭郡西部を支配した箱田貞副(法名須蓮)が当寺を先祖の菩提寺とし、奈良の極楽寺仙戒を招いて開山とし、足利尊氏も西国敗走の時当寺に寄宿し、寺名を新善光寺と長門国から長光寺と改称させ、当寺の塔を利生塔としたという寺伝がある。

九州探題今川了俊はその紀行「道ゆきぶり」応安四年(一三七一)一〇月に、「あさの郡といふさとにつきぬ、むかし板がきの城と申ける山ぎはに寺の侍(はべる)に今夜はとどまりたり、此寺の本尊は信濃国善光寺の如来をたしかにうつし奉りけると申」と記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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