長堤村
ながつつみむら
八溝山地から北西に延びる台地と西端を南西流する小貝川沿いの低地からなり、集落はおもに台地上にある。真岡と門毛(現茨城県西茨城郡岩瀬町)を結ぶ道と大泉(現同上)と益子を結ぶ道が村の中央で交差し、南端に八幡宮と八幡池がある。東は前沢村、北は上山村。中央に中世の城跡があり、土塁と堀で囲まれた東西八〇メートル・南北約七五メートルの方形郭跡が残る。この城は永禄三年(一五六〇)羽石内蔵介時政が築いたもので、天正一三年(一五八五)久下田(現二宮町)の水谷蟠竜に攻められ廃城となったという。羽石家の墓所は前沢の長谷寺にある。当村と周辺数村の範囲は中世には田野とよばれ、近世以降も田野村と一括してよばれる場合があった。享徳元年(一四五二)一〇月四日付の熊野大先達の法印宗俊廻状(小野寺文書)の宛名に、益子などとともに「田野」の地名がある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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