大杉神社(読み)おおすぎじんじや

日本歴史地名大系 「大杉神社」の解説

大杉神社
おおすぎじんじや

[現在地名]桜川村阿波

安穏あんのん寺の隣にある。祭神は倭大物主櫛甕玉命。旧郷社。通称はあんば様。社伝によれば、神護景雲元年(七六七)日光山を開いた勝道がこの地を通ると村人疫病で苦しんでいたため、大和の大神おおみわ神社の分霊を祀ったのが始まりで、延暦一五年(七九六)快賢が安穏寺境内社殿を造営し、大杉大明神とよばれた。仁治二年(一二四一)京都紫野の今宮大神を迎祀し、今宮大杉大明神と称された。慶安五年(一六五二)四月には、四代将軍徳川家綱によって大灯籠二基が寄進された。

寛政年間(一七八九―一八〇一)に焼失し、文化一〇年(一八一三)権現造の現社殿ができたが、文政六年(一八二三)一一月の乍恐以書付奉願上候(桜川村郷土史資料)によれば、本殿再建はなったものの屋根は仮葺のままで、翌七年に瓦葺の屋根が完成した。

大杉神社
おおすぎじんじや

[現在地名]宮古市光岸地

閉伊へい河口の北方山上、青葉遊園地に鎮座。天手力雄命を祀る。宝暦(一七五一―六四)頃、海産物交易を業としたくわさき藤井氏が銚子ちようし(現千葉県銚子市)鎮座のあんば様を勧請、河口の出崎鏡岩の上に石堂を建立したのが始まりといわれる。のち宮古村久館石勝きゆうだてせきしよう寺境内に移されるが、明治初年同寺が廃寺となった際に山上にある愛宕神社境内に移り、昭和八年(一九三三)三度移されて現在地に建立された。網場様と称され、海の神・漁業の神として漁業・五十集を業とする人々から厚い尊崇をうけた。祭礼には漁業に従事する宮古・鍬ヶ崎両村の有力者が交替で世話役にあたった。

大杉神社
おおすぎじんじや

[現在地名]茨城町下石崎

沼の北岸に鎮座。祭神は大物主命。社伝によると天保九年(一八三八)阿波あば(現稲敷郡桜川村)の大杉神社から分祀したという。当時涸沼付近の村落天然痘が流行し、死者が続出したため村人が協議して船玉神を疫病退散の神として迎えたと伝える。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報