長島城跡(読み)ながしまじようあと

日本歴史地名大系 「長島城跡」の解説

長島城跡
ながしまじようあと

[現在地名]長島町西外面

長島城は木曾川伊尾いび(現揖斐川)に囲まれ、南は伊勢湾に面して、中洲に発達した多くの島々の中に築かれ、天然要害の地として中世以来重視されてきた。文明年間(一四六九―八七)には、長野氏一族と伝えられる伊藤重晴がここに拠り、押付おしつけ殿名とのめ竹橋たけはしの三所に砦を築いたが、その後この北西約三・五キロの伊尾川沿いの杉江すぎえ村に建立された一向宗願証がんしよう寺の僧証意は、近辺の国侍らと呼応して長島城を攻め、伊藤氏を追い、自ら長島殿と称した(三国地志)。一向一揆の拠点としての長島城の守りは堅く、元亀二年(一五七一)・天正元年(一五七三)と再度にわたる城の攻略に失敗した織田信長は、ついに天正二年海陸からの猛攻撃を加えて、ようやくこの一向一揆を壊滅させることができた(信長公記)

信長はこの地の軍事的価値の高いのに注目し、滝川一益に与えて城の修築を行わせた。

長島城跡
ながしまじようあと

[現在地名]紀伊長島町長島

長島浦北の城腰しろこし(寝釈迦山)の山頂(約一四〇メートル)にある。「紀伊続風土記」に岡山おかやま城跡として「天正六年伊勢国司より加藤甚五郎を以て熊野の押へとして此処に城を構へ三、四年居城す、近郷の者これに背きて其城を焼払ふといふ」と記される。「北牟婁郡地誌」に長島城跡として次のようにある。

<資料は省略されています>

天正初年新宮の堀内氏善が三木みき(現尾鷲市)を攻め、城主三鬼新八郎を上北山かみきたやま(現奈良県上北山村)へ追い三木城を奪った。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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