日本歴史地名大系 「北牟婁郡」の解説 北牟婁郡きたむろぐん 面積:二五六・七三平方キロ紀伊長島(きいながしま)町・海山(みやま)町三重県南部にある。北西は台高(だいこう)山脈の一〇〇〇メートル級の山々が重なり、森林地帯を形成し、冬季は寒風を遮り、温暖の地となっている。南東部はリアス海岸となり、黒潮が流れて絶好の漁場として知られる。〔原始・古代〕当郡には赤羽(あかば)川・船津(ふなつ)川・銚子(ちようし)川の三河川があり、流域には幾つかの平地が形成されている。日本有数の豪雨地帯のため遺跡や遺物は流失したと考えられ、二郷(にご)神社(紀伊長島町)境内や、深く内陸に入込んだ入江奥の片上(かたかみ)(紀伊長島町)や小浦(おうら)(海山町)にわずかに縄文中・後期遺跡や弥生遺跡がみられる程度である。海岸線には諏訪池(すわいけ)・古里(ふるさと)・海野(かいの)・比幾(ひいけ)・道瀬(どうぜ)・豊浦(といら)・横城(よこじろ)(紀伊長島町)、大白(おおじろ)浜・船越(ふなこし)・矢口網代(やぐちあじろ)・小山(おやま)浦(海山町)などに縄文から古墳時代にかけての遺跡がある。大化二年(六四六)国郡の制定に伴い、当郡域は志摩国英虞(あご)郡に属した。伊勢神宮の御厨があり、塩を奉納したと思われ、平安時代から鎌倉時代にかけての製塩場跡や製塩土器が発見されている。製塩遺跡は紀伊長島町の城之(じようの)浜・大名倉(おおなぐら)・道瀬、海山町の矢口網代にみられる。〔中世〕平安時代後期から熊野詣が盛んになるが、伊勢から熊野へ向かう街道は栃古(とちこ)(現度会郡大内山村)からツヅラト越で当郡域に入り、赤羽谷の山間を経て長島に出、始神(はじかみ)峠(椒峠、現紀伊長島町と海山町の境)を越え、鷲下(わしげ)から馬越(まごせ)峠(現海山町と尾鷲市の境)に向かった。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by