長崎奉行所立山役所跡
ながさきぶぎようしよたてやまやくしよあと
江戸時代、幕府が直轄領の長崎に置いた地方長官である長崎奉行の役所跡。史料上は「立山御役所」(菱屋平七「筑紫紀行」所載絵図)のほか、「立山御屋敷」や、たんに「立山」とも記され、西役所とともに「御両所」と併称される(「唐通事会所日録」元禄元年六月条・同六年五月条など)。文禄元年(一五九二)本博多町に奉行屋敷が置かれ、寛永一〇年(一六三三)奉行屋敷の二分化で東役所・西役所とされ、同一一年東役所が岩原村内立山に移転、延宝元年(一六七三)落成した(長崎市中明細帳など)。以後明治維新で廃されるまで「立山御役所」と西役所が長崎奉行所とされるが、奉行所としての機能はほぼ立山役所にあったといえよう。長崎奉行は遠国奉行の一つで老中に属し、その役割は文禄元年豊臣秀吉が任じた寺沢広高(肥前唐津城主)までさかのぼるが、江戸開幕により小笠原一庵・長谷川藤広(徳川家康の侍妾の兄)や長谷川権六郎藤正・竹中采女正重義(正重、豊後府内城主)ら徳川家康の側近が任じられ、貿易の掌握、キリシタン禁令、御用物の調達、外国関連事件の処理など多様な業務にあたるとともに、また貿易経営にも乗出した。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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