朝日日本歴史人物事典 「長崎屋源右衛門」の解説 長崎屋源右衛門 江戸時代の江戸阿蘭陀宿の当主の通称。長崎屋は,オランダ商館長江戸参府の際の定宿として幕府が設けたもので,同様の定宿が京都,大坂にもあった。江戸日本橋本石町3丁目にあり,江戸前期から幕末まで11代が源右衛門を称した。オランダ人滞在中は,拝礼の案内,荷物の点検,健康管理など諸事に心を配るのが当主の務め。長崎会所,大坂銅座との関係が密で,舶載品買い取りの特権もあった。また長崎屋2階を舞台に行われた商館長一行と日本人(蘭学者,大名)との文化,学術交流では,裏方として潤滑油の役割を果たした。北斎の版画や当時の句「長崎屋自分の内へ分けて入り」は,オランダ人見物の群衆が宿の前でひしめき合うさまをよく伝えている。<参考文献>岡村千曳『紅毛文化史話』,板沢武雄『日蘭文化交渉史の研究』 (鳥井裕美子) 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報 Sponserd by
デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「長崎屋源右衛門」の解説 長崎屋源右衛門(初代) ながさきや-げんえもん ?-1620 江戸時代前期の商人。江戸日本橋本石町で薬種商をいとなむ。将軍に拝謁(はいえつ)のため江戸にきた長崎のオランダ商館長(カピタン)一行に定宿(江戸阿蘭陀(オランダ)宿)を提供。俳諧(はいかい)をよくし,扇徳と号した。元和(げんな)6年3月死去。代々源右衛門を名のり,幕末まで11代つづいた。元和(げんな)6年3月死去。 出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例 Sponserd by