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万暦帝 ばんれきてい Wan-li-di; Wan-li-ti

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

万暦帝
ばんれきてい
Wan-li-di; Wan-li-ti

[生]嘉靖42(1563)
[没]万暦48(1620)
中国,明の第 14代皇帝 (在位 1572~1620) 。姓名は朱翊鈞 (よくきん) 。諡は顕皇帝。廟号は神宗。隆慶帝の第3子。 10歳で即位したので,先帝の付託により大学士張居正が政治をもっぱらにした。

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デジタル大辞泉の解説

ばんれき‐てい【万暦帝】

[1563~1620]中国、朝の第14代皇帝。在位1572~1620年。廟号は神宗。張居正の輔政によって綱紀粛正財政再建に成功したが、居正死後の親政は放漫となり、相次ぐ内乱、朝鮮・寧夏・貴州への出兵、の興起などで政治は空白化し、明は衰退を深めた。

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百科事典マイペディアの解説

万暦帝【ばんれきてい】

中国,明の第14代皇帝(在位1572年―1620年)。廟号は神宗。隆慶帝の第3子で10歳で即位。当初は前帝の遺命で吏部尚書張居正が諸種の政治改革を実施した。内政では,官吏の綱紀粛正,税法の改革による一条鞭法(いちじょうべんぽう)の実施,検地と戸口調査による土地税や人頭税の確保などがあり,対外的には国境防備を厳重にして北方からのモンゴル族の侵攻(北虜)にほぼ終止符をうち,南方での倭寇の活動も抑えることに成功した。
→関連項目リッチ

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世界大百科事典 第2版の解説

ばんれきてい【万暦帝 Wàn lì dì】

1563‐1620
中国,明朝第14代の皇帝。在位1572‐1620年。姓名は朱翊鈞(しゆよくきん),諡(おくりな)は顕皇帝,廟号は神宗,年号は万暦。10歳で即位したため,政務はもっぱら内閣の首席大学士であり,帝の学問上の師でもあった張居正に委ねられた。張居正は内政において,綱紀の粛正,冗官の整理につとめたほか,国家の財政収入を確保するため,1580年(万暦8)以来,全国的な土地の再測量と登録更新,すなわちいわゆる丈量(じようりよう)を行った。

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大辞林 第三版の解説

ばんれきてい【万暦帝】

1563~1620) 中国、明の第一四代皇帝(在位1572~1620)。廟号は神宗。治世中、東林派対非東林派官僚の対立激化による政治の空白、豊臣秀吉の朝鮮出兵、満州族の興起などにより国勢は衰えた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

万暦帝
ばんれきてい
(1563―1620)

中国、明(みん)の第14代皇帝(在位1572~1620)。姓名は朱翊鈞(しゅよくきん)。諡(おくりな)は顕(けん)皇帝。廟号(びょうごう)は神宗。13代皇帝の隆慶(りゅうけい)帝の第3子。母は貴妃李(り)氏(のちに孝定皇太后)。1568年皇太子となり、隆慶帝の急死のあと、わずか10歳で即位。そのために先帝の付託を受けて大学士張居正が首輔(しゅほ)となり、政務全般を執り行った。帝が廟堂で臣下の奏言を聞いたのは10日のうち3・6・9の平日の午前、ひと月でも計9日にすぎず、余日はすべて張居正を先生として勉学に励んだ。張居正は、内治では綱紀の粛正、冗官の整理、黄河下流の治水などに敏腕を振るい、外には戚継光(せきけいこう)、李成梁(りせいりょう)を満州・遼東(りょうとう)からモンゴル高原に派遣して、辺防の強化に力を傾けさせ、そのために北虜の侵入はほぼ終止符を打った。また浙江(せっこう)、福建、広東(カントン)の海防にも意を注ぎ、南倭(なんわ)の動きも封じた。張居正は1580年より隠田の摘発や脱税防止を目的として、全国的な土地丈量に着手したが、その完成を待たず死亡した。張居正は性格が剛直で、政策手腕も明を代表する名宰相であったが、万暦帝にとってはこわい教師的存在で、その死(1582)によって帝はすっかり自由になり、政務をほうり出し、奢侈(しゃし)にふけった。宦官(かんがん)を全国に派遣し、銀山などを開き、あるいは商税を増徴させた。いわゆる鉱税の禍とよばれるものである。その結果、蘇州(そしゅう)や山東の臨清などに民変が相次いだ。またこれより先、92年にはオルドスのボバイが反し、97年には貴州・播州(ばんしゅう)の土官楊応竜が反した。この二つの反乱に前後して、豊臣(とよとみ)秀吉の朝鮮侵略(壬辰倭乱(じんしんわらん))があり、それに救援軍を派遣した。これらを万暦三大征というが、その軍費調達には臨時の増税を行わざるをえず、しかも鉱税問題や皇太子冊立(さくりつ)問題などで東林派対非東林派の党争が激化し、政治は空白となって、明の社会は一気に衰運に向かった。「明の亡(ほろ)ぶは、実は神宗に亡ぶ」といわれるゆえんである。陵墓は、いわゆる「明の十三陵」のなかの定陵で、1956~57年にかけて発掘され、地下宮殿として知られている。[川勝 守]

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世界大百科事典内の万暦帝の言及

【定陵】より

…中国,明の14代皇帝万暦帝の陵墓。北京市北郊の天寿山のふもとの小盆地に分布する明十三陵の一つ。…

【明】より

…徴税の基礎となる丈量(土地測量)を全国的に実施し,一時的にもせよ財政を再建したのが,万暦(1573‐1619)初期の張居正である。彼は幼い万暦帝の師傅(しふ)として母后の信頼を背景に,官僚の綱紀粛正に努力し,土地の丈量・再登記によって,嘉靖以来徐々に実施されていた税制改革を,いっそう効果あらしめたと考えられる。しかし彼の施政はかなり強権的であったうえ,丈量は土地所有者の利益をそこなう性質のものであるから,多くの反対を招くことになり,丈量は一応完結したものの,張居正は1582年(万暦10)に死ぬと,官位財産を追奪された。…

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