中国,明朝第14代の皇帝。在位1572-1620年。姓名は朱翊鈞(しゆよくきん),諡(おくりな)は顕皇帝,廟号は神宗,年号は万暦。10歳で即位したため,政務はもっぱら内閣の首席大学士であり,帝の学問上の師でもあった張居正に委ねられた。張居正は内政において,綱紀の粛正,冗官の整理につとめたほか,国家の財政収入を確保するため,1580年(万暦8)以来,全国的な土地の再測量と登録更新,すなわちいわゆる丈量(じようりよう)を行った。対外的には各辺境の防備強化につとめ,とりわけ北方のモンゴル族の侵入を阻むことに成功した。このため,明朝は中央集権国家としての機能をいちおう維持することができた。
しかし,82年の張居正の死後,内閣には彼の政策を継承するだけの強力な指導性をもった大学士がなく,帝も繁雑な外廷の実務から離れて,罹災した宮殿の再建や自己の死後の墳墓(定陵)建設のために法外な資金を投入するなど奢侈にふけり,明朝の政治は弛緩し,財政は傾きはじめた。92年から,西北の寧夏におけるボハイの乱,西南の貴州の土官楊応竜の乱の鎮圧,豊臣秀吉の朝鮮侵略を防ぐ救援軍の派遣など,いわゆる〈万暦の三大征〉が開始されると明朝の財源は枯渇した。にもかかわらず,帝は大局を顧みず,内廷での私生活の費用を捻出することに専心し,全国的規模で,銀鉱山開発という名目にもとづいて銀を徴収したり,当時画期的な発展を示していた商品流通に目をつけ,商品の国内関税を大幅に増徴しようとした。しかもこれらの実務を直接担当した宦官は各地で,地方官を圧迫し,手工業者や商人に不当な要求を重ねたため,民変と呼ばれる都市の民衆の大規模な抵抗運動が華中・華南を中心に全国各地であいついで起こった。このころ,東北ではヌルハチが満州族を統一し,1618年遼東の要地撫順城を奪うにいたった。明朝は戦費をまかなうため,遼餉(りようしよう)の名で租税の増徴を行ったので,農民の負担は急増し,とりわけ華北で彼らの窮乏化が顕著となった。帝の最晩年,中央政府内部では,皇太子の選定問題を契機に東林派と非東林派の官僚のあいだで激しい党争が展開され,明朝は一貫した政治方針を打ち出す力を失っていった。明朝滅亡の遠因は張居正没後の万暦帝の統治時代の中に見いだされる。
執筆者:森 正夫
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中国、明(みん)の第14代皇帝(在位1572~1620)。姓名は朱翊鈞(しゅよくきん)。諡(おくりな)は顕(けん)皇帝。廟号(びょうごう)は神宗。13代皇帝の隆慶(りゅうけい)帝の第3子。母は貴妃李(り)氏(のちに孝定皇太后)。1568年皇太子となり、隆慶帝の急死のあと、わずか10歳で即位。そのために先帝の付託を受けて大学士張居正が首輔(しゅほ)となり、政務全般を執り行った。帝が廟堂で臣下の奏言を聞いたのは10日のうち3・6・9の平日の午前、ひと月でも計9日にすぎず、余日はすべて張居正を先生として勉学に励んだ。張居正は、内治では綱紀の粛正、冗官の整理、黄河下流の治水などに敏腕を振るい、外には戚継光(せきけいこう)、李成梁(りせいりょう)を満州・遼東(りょうとう)からモンゴル高原に派遣して、辺防の強化に力を傾けさせ、そのために北虜の侵入はほぼ終止符を打った。また浙江(せっこう)、福建、広東(カントン)の海防にも意を注ぎ、南倭(なんわ)の動きも封じた。張居正は1580年より隠田の摘発や脱税防止を目的として、全国的な土地丈量に着手したが、その完成を待たず死亡した。張居正は性格が剛直で、政策手腕も明を代表する名宰相であったが、万暦帝にとってはこわい教師的存在で、その死(1582)によって帝はすっかり自由になり、政務をほうり出し、奢侈(しゃし)にふけった。宦官(かんがん)を全国に派遣し、銀山などを開き、あるいは商税を増徴させた。いわゆる鉱税の禍とよばれるものである。その結果、蘇州(そしゅう)や山東の臨清などに民変が相次いだ。またこれより先、92年にはオルドスのボバイが反し、97年には貴州・播州(ばんしゅう)の土官楊応竜が反した。この二つの反乱に前後して、豊臣(とよとみ)秀吉の朝鮮侵略(壬辰倭乱(じんしんわらん))があり、それに救援軍を派遣した。これらを万暦三大征というが、その軍費調達には臨時の増税を行わざるをえず、しかも鉱税問題や皇太子冊立(さくりつ)問題などで東林派対非東林派の党争が激化し、政治は空白となって、明の社会は一気に衰運に向かった。「明の亡(ほろ)ぶは、実は神宗に亡ぶ」といわれるゆえんである。陵墓は、いわゆる「明の十三陵」のなかの定陵で、1956~57年にかけて発掘され、地下宮殿として知られている。
[川勝 守]
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1563~1620(在位1572~1620)
明の第14代皇帝,廟号は神宗(しんそう)。隆慶帝の第3子。即位の初めは名臣張居正(ちょうきょせい)の補佐を得て,幼少ながら明中興の治績をあげた。居正の死後は奢侈にふけり,宦官(かんがん)を重用して政治を乱し民衆の反乱を招いた。中央では東林党,非東林の党争が激化し,加えて万暦の三大征(寧夏(ねいか)・播州(ばんしゅう)の反乱と,豊臣秀吉の出兵に対する朝鮮への救援)は財政悪化を招き,民衆の反感が激増して衰亡の様相を深めた。
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…徴税の基礎となる丈量(土地測量)を全国的に実施し,一時的にもせよ財政を再建したのが,万暦(1573‐1619)初期の張居正である。彼は幼い万暦帝の師傅(しふ)として母后の信頼を背景に,官僚の綱紀粛正に努力し,土地の丈量・再登記によって,嘉靖以来徐々に実施されていた税制改革を,いっそう効果あらしめたと考えられる。しかし彼の施政はかなり強権的であったうえ,丈量は土地所有者の利益をそこなう性質のものであるから,多くの反対を招くことになり,丈量は一応完結したものの,張居正は1582年(万暦10)に死ぬと,官位財産を追奪された。…
※「万暦帝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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