長崎高綱(読み)ながさき・たかつな

朝日日本歴史人物事典 「長崎高綱」の解説

長崎高綱

没年:正慶2/元弘3.5.22(1333.7.4)
生年:生年不詳
鎌倉後期の得宗被官。父は光綱。三郎左衛門尉。法名は円喜北条宗方が討たれた嘉元3(1305)年から文保1(1317)年まで内管領,延慶2(1309)年には寄合合奉行。3年には若狭国太良荘の雑掌の訴訟を六波羅から申請されている。同2年以前に出家している。執権・北条基時の執権辞任と北条高時の執権就任の際の立役者で,子の高資,安達時顕と共に高時の寄合の中心に位置し鎌倉幕府政務の判断を行う立場にあった。晩年は,金沢貞顕などへの請願は,まず高綱のもとに申請されて高綱が子の高資に通達して許可へ向かうというありさま幕府の運営を左右した。幕府滅亡の際,東勝寺で自害。<参考文献>佐藤進一「鎌倉幕府政治の専制化について」(『日本中世史論集』),立花みどり「長崎氏二階堂道蘊」(『鑑賞日本古典文学』21号),細川重男「内管領長崎氏の基礎的研究」(『日本歴史』479号)

(福島金治)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「長崎高綱」の意味・わかりやすい解説

長崎高綱 (ながさきたかつな)
生没年:?-1333(元弘3)

鎌倉後期の武士,御内人(みうちびと)。光綱の子。法名円喜。1316年(正和5)北条高時の執権就任にともない内管領(うちかんれい)となる。高時は就任時14歳にすぎなかったため,高綱が幕政の実権を掌握した。数年後家督を嫡子高資(たかすけ)に譲り,幕末まで長崎氏一族が幕政を左右した。1333年5月新田義貞の鎌倉攻めで,子高資・孫高重とともに鎌倉東勝寺で自害した。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「長崎高綱」の解説

長崎高綱
ながさきたかつな

?~1333.5.22

鎌倉後期の武士。北条氏得宗家の被官。光綱の子。法名は円喜。「内ノ執権」と称された北条宗方が1305年(嘉元3)に討たれたのち,内管領(ないかんれい)の地位につく。11年(応長元)北条貞時から安達時顕とともに後事を託され,凡庸な執権高時を補佐して幕政の実権を握った。17年(文保元)頃,内管領を嫡子高資に譲って出家するが,その後も幕政に大きな影響力をもった。33年(元弘3)幕府滅亡に際し,鎌倉東勝寺で自害。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「長崎高綱」の解説

長崎高綱 ながさき-たかつな

?-1333 鎌倉時代の武将。
長崎光綱の子。正和(しょうわ)5年北条高時が執権となると,内管領(うちかんれい)となり,幕政の実権をにぎった。のち嫡子高資(たかすけ)に家督をゆずり出家する。新田義貞の鎌倉攻めで正慶(しょうきょう)2=元弘(げんこう)3年5月22日,高時ら北条一門とともに鎌倉東勝寺で自害。通称は長崎禅門,長入道。法名は円喜。

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