朝日日本歴史人物事典 「長崎高綱」の解説
長崎高綱
生年:生年不詳
鎌倉後期の得宗被官。父は光綱。三郎左衛門尉。法名は円喜。北条宗方が討たれた嘉元3(1305)年から文保1(1317)年まで内管領,延慶2(1309)年には寄合の合奉行。3年には若狭国太良荘の雑掌の訴訟を六波羅から申請されている。同2年以前に出家している。執権・北条基時の執権辞任と北条高時の執権就任の際の立役者で,子の高資,安達時顕と共に高時の寄合の中心に位置し鎌倉幕府の政務の判断を行う立場にあった。晩年は,金沢貞顕などへの請願は,まず高綱のもとに申請されて高綱が子の高資に通達して許可へ向かうというありさまで幕府の運営を左右した。幕府滅亡の際,東勝寺で自害。<参考文献>佐藤進一「鎌倉幕府政治の専制化について」(『日本中世史論集』),立花みどり「長崎氏と二階堂道蘊」(『鑑賞日本古典文学』21号),細川重男「内管領長崎氏の基礎的研究」(『日本歴史』479号)
(福島金治)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報