長崎高綱(読み)ながさきたかつな

改訂新版 世界大百科事典 「長崎高綱」の意味・わかりやすい解説

長崎高綱 (ながさきたかつな)
生没年:?-1333(元弘3)

鎌倉後期の武士,御内人(みうちびと)。光綱の子。法名円喜。1316年(正和5)北条高時執権就任にともない内管領(うちかんれい)となる。高時は就任時14歳にすぎなかったため,高綱幕政実権を掌握した。数年後家督嫡子高資(たかすけ)に譲り,幕末まで長崎氏一族が幕政を左右した。1333年5月新田義貞の鎌倉攻めで,子高資・孫高重とともに鎌倉東勝寺で自害した。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「長崎高綱」の解説

長崎高綱
ながさきたかつな

?~1333.5.22

鎌倉後期の武士。北条氏得宗家の被官。光綱の子。法名は円喜。「内ノ執権」と称された北条宗方が1305年(嘉元3)に討たれたのち,内管領(ないかんれい)の地位につく。11年(応長元)北条貞時から安達時顕とともに後事を託され,凡庸な執権高時を補佐して幕政の実権を握った。17年(文保元)頃,内管領を嫡子高資に譲って出家するが,その後も幕政に大きな影響力をもった。33年(元弘3)幕府滅亡に際し,鎌倉東勝寺で自害。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「長崎高綱」の解説

長崎高綱 ながさき-たかつな

?-1333 鎌倉時代の武将
長崎光綱の子。正和(しょうわ)5年北条高時が執権となると,内管領(うちかんれい)となり,幕政の実権をにぎった。のち嫡子高資(たかすけ)に家督をゆずり出家する。新田義貞の鎌倉攻めで正慶(しょうきょう)2=元弘(げんこう)3年5月22日,高時ら北条一門とともに鎌倉東勝寺で自害。通称は長崎禅門,長入道。法名は円喜。

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