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北条高時 ほうじょうたかとき

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

北条高時
ほうじょうたかとき

[生]嘉元1(1303).鎌倉
[没]元弘3=正慶2(1333).5.22. 鎌倉
鎌倉幕府の 14代執権 (在職 1316~26) 。相模守貞時の子。母は大宝 (だいほう) 泰宗の娘。幼名は成寿。法名は崇鑑。日輪寺殿と称する。正和5 (1316) 年7月執権に就任したが,実権は岳父安達時顕,内管領長崎円喜,高資父子が握っていたため,闘犬,田楽,飲酒などにふけり幕政は乱れた。

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デジタル大辞泉の解説

ほうじょう‐たかとき〔ホウデウ‐〕【北条高時】

[1303~1333]鎌倉幕府第14代執権。在職1316~1326。若年で執権となったため政治を乱し、正中の変元弘の変を招いた。のち、新田義貞に鎌倉を攻められて一族とともに自刃した。

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百科事典マイペディアの解説

北条高時【ほうじょうたかとき】

鎌倉幕府第14代執権。貞時の子。1316年執権となる。幼少のため舅(しゅうと)安達時顕や執事長崎高資(たかすけ)らが実権を握って政治は乱れ,民心を失った。1326年入道して執権を金沢(かねさわ)貞顕に譲った。
→関連項目光厳天皇太平記中先代の乱新田荘

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

北条高時 ほうじょう-たかとき

1303-1333 鎌倉時代の武将。
嘉元(かげん)元年生まれ。北条貞時(さだとき)の次男。正和(しょうわ)5年14代執権となるが,内管領(うちかんれい)長崎高資(たかすけ)らに実権をにぎられ酒宴,田楽にふけったという。正中(しょうちゅう)3年執権を金沢貞顕(かねざわ-さだあき)にゆずり出家。元弘(げんこう)の乱で後醍醐(ごだいご)天皇を隠岐(おき)に流したが,新田義貞に攻められ,正慶(しょうきょう)2=元弘3年5月22日一族とともに鎌倉東勝寺で自刃(じじん),鎌倉幕府は滅亡した。31歳。法名は崇鑑。

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朝日日本歴史人物事典の解説

北条高時

没年:正慶2/元弘3.5.22(1333.7.4)
生年:嘉元1(1303)
鎌倉後期の武将。鎌倉幕府の執権。得宗第9代。父は北条貞時。母は安達泰宗の娘(あるいは安達時顕の娘)。幼名成寿丸。相模太郎と称す。延慶2(1309)年1月元服。応長1(1311)年6月に従五位下左馬権頭。同年父貞時が死去。貞時は死後の実務を内管領長崎高綱・高資父子と安達時顕に委ねたともいい,高時は彼らの庇護のもとで成長した。正和5(1316)年1月従五位上に昇り但馬権守を兼任。同年7月,14代執権に就任。但し政治の実権は依然長崎氏らの手中にあった。文保1(1317)年3月,正五位下相模守。4月従四位下。このころ摂津親鑒が上洛し,大覚寺持明院両統の皇位継承についての建策を行った。践祚,立坊は両統の和談によるべしとするもので,「文保の和談」と呼ばれる。これにより当時の幕府の指向性を知ることができるが,両統の対立は根深く,以後も幕府は否応なく皇位継承に干渉せざるをえなかった。朝廷の幕府への不満も,日を追って高まっていく。 同3年修理権大夫を兼ねる。正中1(1324)年,朝廷の倒幕計画が露顕し後醍醐天皇は罪に問われた。いわゆる「正中の変」であるが,幕府は天皇の無実を認め,穏便に対処した。同3年3月,病のために出家,執権職を金沢貞顕に譲る。法名を日輪寺崇鑑と称した。元徳2(1330)年,長崎高頼らが長崎高資の排斥を企て,逆に処罰される。高頼らの背後には高時がいたらしいが,高時は遂に高資の存在を否定し得なかった。高時が当時田楽,闘犬,酒宴にあけくれていたことを併せ考えると,高資の政治力が高時を凌駕していたことは間違いないだろう。高時が世人から「ほとんど亡気(痴呆)の躰」と評された原因も,ここにあるのではないか。元徳3/元弘1(1331)年4月,後醍醐天皇は再び討幕を計画して挙兵。幕府はいったんこれを鎮圧するが,兵乱は全国に拡大。正慶2/元弘3年新田義貞の進攻にあい,高時は鎌倉葛西ケ谷の東勝寺で一族と共に自刃,150年にわたる鎌倉幕府は滅亡した。

(本郷和人)

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世界大百科事典 第2版の解説

ほうじょうたかとき【北条高時】

1303‐33(嘉元1‐元弘3)
鎌倉時代,北条氏最後の得宗。貞時の子。室は安達時顕女。幼名成寿丸。1311年(応長1)1月小侍奉行,6月左馬権頭。同10月父の死により内管領長崎円喜と安達時顕に補佐され9歳で得宗の座につくが,頻々と執権が交代し政治不安は増大した。16年(正和5)14歳で執権となるが,実権は得宗の専制権力を背景とする内管領長崎高資(円喜の子)が掌握,失政が続いた。24年(正中1)幕府は後醍醐天皇の討幕計画を未然に抑えたが(正中の変),激化する海賊・悪党の跳梁,蝦夷の蜂起,さらに泥沼化する内紛は幕府を弱めた。

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大辞林 第三版の解説

ほうじょうたかとき【北条高時】

1303~1333) 鎌倉幕府第一四代執権。貞時の子。法名、崇鑑。一四歳で執権となったが、内管領長崎高資らに実権を握られ遊宴にふけったため幕政は混乱。元弘の乱で後醍醐天皇を隠岐に配流し光厳天皇を擁立したが、新田義貞に鎌倉を攻められ東勝寺で自刃した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

北条高時
ほうじょうたかとき
(1303―1333)

鎌倉幕府第14代執権。貞時(さだとき)の子。日輪寺(にちりんじ)殿とよばれた。左馬権頭(さまごんのかみ)、相模守(さがみのかみ)を歴任。法名崇鑑(そうかん)。1316年(正和5)14歳で執権となる。まだ幼少で、執権としての器量にも欠けていたため、舅(しゅうと)秋田城介(あきたじょうのすけ)時顕(ときあき)と内管領(うちかんれい)長崎高綱(たかつな)(円喜)が幕政を握り、やがて高綱の子高資(たかすけ)の専横政治へと発展した。御家人(ごけにん)層の幕府への不信不満も募り、北条氏政権の危機を招き、公家(くげ)勢力に反撃の機会を与える結果となった。24年(正中1)後醍醐(ごだいご)天皇を中心とする討幕計画(正中(しょうちゅう)の変)が発覚したが、幕府は翌年日野資朝(すけとも)を佐渡に流しただけで、天皇への疑惑を追及しなかった。26年(嘉暦1)病により執権を辞して出家。しかし続く金沢貞顕(かねさわさだあき)、赤橋守時(もりとき)の執権時代を通じて、高時は得宗(とくそう)として幕府の実権を掌握していた。31年(元弘1)またも天皇による討幕計画(元弘(げんこう)の変)が伝えられ、高時は日野俊基(としもと)、文観(もんかん)らを捕らえ、9月には後醍醐天皇を廃し光厳(こうごん)天皇をたてるとともに、関東軍を上洛(じょうらく)させ京都警固にあたらせた。33年高時は、足利高氏(あしかがたかうじ)(のち尊氏)、名越高家(なごしたかいえ)を大将として後醍醐天皇討伐のため大軍を上京させた。しかし高氏の寝返りによって六波羅(ろくはら)が落ちた。まもなく新田義貞(にったよしさだ)、足利千寿王(せんじゅおう)(義詮(よしあきら))らに鎌倉を攻められ、5月22日一門、御内(みうち)の者とともに北条氏ゆかりの東勝(とうしょう)寺に入って自害、鎌倉幕府も滅亡した。彼が田楽(でんがく)を好んだことは有名。[田辺久子]

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世界大百科事典内の北条高時の言及

【東勝寺】より

…北条泰時がその室の母の追善のため,墓のかたわらに一宇を建立し,退耕行勇(たいこうぎようゆう)を導師として供養し,のち行勇の門弟西勇を開山とする禅寺となったというが,行勇開山説など開山,開基については諸説ある。1333年(元弘3)鎌倉幕府滅亡に際し,北条高時以下一族郎党がこの寺で自害した。15世紀半ばごろ退転し,16世紀初めごろ足利政氏が中興したが,のち再び廃絶した。…

【得宗】より

…鎌倉幕府執権北条氏の家督。徳宗,徳崇とも書く。鎌倉北条氏2代義時の法名に由来し,その嫡流の家督をさすようになり,さかのぼって初代時政のほか,夭折して家督を継がなかった時氏も含めて,いわゆる〈北条九代〉(時政,義時,泰時,時氏,経時,時頼,時宗,貞時,高時)を総称する語になった。初代時政は将軍源頼朝の外舅として一般御家人とは別格の地位を与えられていたが,頼朝没後,御家人の列に下り,1203年(建仁3)9月比企能員一族を攻め滅ぼして2代将軍頼家を追放し,政所別当に就任,幕政を執権した。…

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