長手村(読み)ながてむら

日本歴史地名大系 「長手村」の解説

長手村
ながてむら

[現在地名]太田市長手

大島おおしま村の北、かな北西部の長手谷に位置し、東・北・西を丘陵に囲まれ南が開ける。北西は鶴生田つるうだ村。嘉応二年(一一七〇)の新田庄田畠在家目録写(正木文書)に「なかての郷 田廿五町八反廿たい 畠四反廿たい 在家二う」とみえ、年未詳七月日(写本は文永三年と振る)の新田庄内大島六郷注文(同文書)に長手があげられており、里見系の所領と思われる。年月日未詳の新田庄知行分目録(同文書)によると長手郷は鳥山式部大夫の知行所となっており、室町時代に入っても里見系新田氏に伝領されていた。永禄八年(一五六五)の「長楽寺永禄日記」によると、長手には金山実かなやまみ(本丸)への登山口があり、近辺には「山之小屋」(宿城)もあった(九月一八日条など)


長手村
ながてむら

[現在地名]米沢市長手

竹井たけい村の北に位置し、天王てんのう川に沿う西岸平地に立地。中世には屋代やしろ庄のうち長手郷。天文三年(一五三四)四月一日の伊達稙宗安堵状案(伊達家文書)によれば、浜田常陸守よりの買地である屋代庄長手郷のうち、神社年貢五貫文の所を佐藤与一に安堵している。同七年の段銭古帳によれば、屋代庄「なかて」から一九貫五二五文を納めている。同二二年の晴宗公采地下賜録によれば、長手のうち、下飯坂紀伊守が富塚近江守分「岡のさいけ」、勾当が上飯坂より買地の「つちのさいけ」「やまた屋しき」および佐藤大炊助より買地の「坂の下在家」「にとう五郎屋敷」、竹田彦七が「はきのもり九郎ゑもんさいけ」および佐藤大炊助より買地の「ひこ六さいけ」のうち切田一五〇刈、星源四郎が佐藤左馬允より買地の「くちミ一間」、佐藤左馬允が「かうつけ在家」「あミたたう田」「地蔵てん」、遠藤主計が「かすへ在家」一軒および「けんきし分」切畠、「天神分」切畠、「ひしやもん堂」切田(畠か)などをそれぞれ与えられている。


長手村
ながてむら

[現在地名]福江市長手町

崎山さきやま村の北西にある同村枝郷で、北東部は海に臨む。南西ノ岳がある。天保郷帳などに記載はない。天養元年(一一四四)の頃、福江の大津おおつにある真言宗神宮じんぐう寺の前身にあたる薬師堂が建立されていたと伝える。しかし当地では福江藩陪臣の川村家の伝承を重視し、草分にかかわる堂として長く供養してきた。かつて福江藩家臣の大久保勘左衛門の下屋敷が置かれ無人であったが、寛文五年(一六六五)その家臣の川村九郎左衛門が下屋敷番人として移住、開発が進んだという。安永元年(一七七二)崎山村長手村下村一六石余および崎山村長手村上村七石余の新田改が行われ、文化三年(一八〇六)には崎山村上下一石余および崎山村長手村二石余があった(天保五年福江領高辻郷村帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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