長松御厨(読み)ながまつのみくりや

日本歴史地名大系 「長松御厨」の解説

長松御厨
ながまつのみくりや

神鳳鈔」には朝明あさけ郡に「内宮長松御厨八十丁、三十三石」と三重郡に「外宮長松御厨四石」が出る。朝明郡の内宮領長松御厨は、享徳元年(一四五二)の庁宣注文(神宮文庫蔵)、大永六年(一五二六)九月一一日の「太神宮庁宣日記」(同蔵)にもその名がみえる。外宮領の長松御厨は「外宮神領目録」では朝明郡に属し、「但近年四石済之」と注記される。また同目録では三重郡に「永松神田」がある。所在地の比定は困難であるが、応永二九年(一四二二)一〇月二〇日管領畠山満長が奉じた将軍家御教書(地蔵院文書)に「太神宮領伊勢国長松御厨(内カ)所々事、四至東限海、南限三重与□(堺カ)、西限乗(垂カ)坂寺、北限二条九鳥□」とある。近世朝明郡に属した現四日市市別名べつめい四丁目に「長松」「永松」、同五丁目、羽津中はづなか二丁目に「永松」の地名が残る。内宮領長松御厨の故地とも考えられる。また「五鈴遺響」は三重郡尾平おびら村を同所にある永代えいたい寺の山号が「長松山」であることなどを典拠に、外宮領長松御厨の地とする。前記応永二九年の御教書に「治暦所見分明之上者」とあるのを信ずれば一一世紀後半の成立

寛元二年(一二四四)七月八日の祭主大中臣隆通下文(河辺家譜)は「長松御厨内田畠在家等文書正文」を記録所牒に任せて進上すべきことを神祇権少副大中臣季宣に命じている。相論のためと考えられるが相手・内容ともに不明。「葉黄記」同四年一一月三日条には院評定において取上げられているから、この時期も相論は継続していた。康正元年(一四五五)長松御厨雑掌宗重申状(神宮文庫蔵貞治三年内宮遷宮記紙背文書)によれば、この地は内宮一禰宜の「分附管領」するところであった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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