精選版 日本国語大辞典 「広徳寺」の意味・読み・例文・類語 こうとく‐じクヮウトク‥【広徳寺】 東京都練馬区桜台にある臨済宗大徳寺派の寺。山号は円曼山。天正一八年(一五九〇)希叟の創建。昭和四七年(一九七二)台東区東上野から現在地に移転した。江戸時代は加賀藩や会津藩などの諸大名の墓所で、柳生但馬守宗矩などの墓がある。 出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
日本歴史地名大系 「広徳寺」の解説 広徳寺こうとくじ 兵庫県:尼崎市尼崎城下寺町広徳寺[現在地名]尼崎市寺町江戸時代の寺(てら)町の東部にある。臨済宗大徳寺派。瑞雲山と号し、本尊は釈迦如来。元和三年(一六一七)尼崎築城計画のため移転させられる以前は大物(だいもつ)にあったという(尼崎市史)。寺伝によれば明徳元年(一三九〇)に言外宗忠が開基し、のちに笑嶺宗によって中興されたという。京都大徳寺塔頭の如意庵所領注文(大徳寺文書)に「広徳開基華岳栄禅師」がみえ、華岳は応永三年(一三九六)六月二九日如意庵に鳴尾(なるお)(現西宮市)などの田地合せて五段を寄進した広徳寺宗栄のことで(「広徳寺宗栄田地寄進状」同文書)、華岳宗栄が開基であった。あるいは宗栄が師の宗忠を招じて開基としたとも考えられる。 広徳寺こうとくじ 東京都:あきる野市旧五日市町地区小和田村広徳寺[現在地名]あきる野市小和田臨済宗建長寺派。山号は竜角山、本尊は聖観音。開基は正応長者の妻で法名を竜応智雲尼という。開山は心源希徹、応安六年(一三七三)の創建と伝える。のち衰微したが、天文年間(一五三二―五五)に小田原城主北条氏康が堂舎を建立、寺領を寄進して再興したという。氏康を中興の開基とする。小和田(こわだ)の御嶽(みたけ)神社はもとは広徳寺門前にあった五霊(ごれい)神社で、当寺守護であった。 広徳寺こうとくじ 埼玉県:比企郡川島町表村広徳寺[現在地名]川島町表表(おもて)の北部、荒川右岸の低地にある。真言宗豊山派、大御山西福院と号し、本尊は五大明王。寺伝によれば、水尾谷四郎高徳の開基といい、高徳の一族は「吾妻鏡」や「平家物語」にその名がみえ、源平合戦では源氏方として活躍している。開山は不詳だが、中興開山は応永六年(一三九九)に没した宥鑁とされる(風土記稿)。宥鑁は系字からみて下野小俣鶏足(おまたけいそく)寺(現栃木県足利市)の法流をくむ僧と思われ、寛永一〇年(一六三三)の関東真言宗新義本末寺帳には「本寺鶏足寺流」とある。 広徳寺こうとくじ 三重県:阿山郡大山田村広瀬村広徳寺[現在地名]大山田村広瀬 上出広瀬(ひろせ)の中央部やや西の台地上、景勝の地にある。月峯山と号し、曹洞宗。本尊薬師如来。当寺の西は天正伊賀の乱に焼かれたという上来(じようらい)寺跡が推定され、広徳寺はその一坊であったと伝えられる。元文四年(一七三九)九月写の月峯山広徳寺旧記(寺蔵)は「広徳寺は天正遁兵火之難、相続而不断、源光僧都入滅之道場也云云、俗に曰広之坊、上来寺之門首也、万治元戊戌年八月上旬改上来寺之旧名、移寺於本坊之旧地(中略)沙門光西誌」とあり、大和に住んでいた光西が明暦元年(一六五五)伊勢神宮参詣の途次、上来寺という草庵で荒廃した阿弥陀・釈迦如来の仏像に対面し、天正の乱を逃れて池中に沈めてあった由来などを聞き、上来寺の再興を発願し、同寺の一坊であった広(ひろ)の坊を上来寺の旧地に移し再建し、万治元年(一六五八)寺号を月峯山広徳寺と称するようになったというのである。 広徳寺こうとくじ 岩手県:江刺市倉沢村広徳寺[現在地名]江刺市稲瀬 広岡蒼沢山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。もと黒石(くろいし)(現水沢市)正法(しようぼう)寺末。「封内風土記」には、天正年中(一五七三―九二)僧良盛が開山とある。「江刺郡志」によれば文禄二年(一五九三)正法寺一一世観室良盛の開山で、当初宝録田(ほうろくだ)に所在した。水難を避けるため数度の移転ののち現在地に移建された。 広徳寺こうとくじ 北海道:渡島支庁上磯町有川村広徳寺[現在地名]上磯郡上磯町中央二丁目市街地の中央、上磯町役場の西側にある。曹洞宗。補陀山と号し、本尊は釈迦如来。「北海道志」巻一〇によると元文元年(一七三六)箱館高龍(こうりゆう)寺の禅海が創立、観音庵と号したという。一方、文化七年(一八一〇)高龍寺一一世禅海が観音庵を造立したのに始まるとも伝える。安政五年(一八五八)同庵と併せて荼枳尼堂が看住の泰心により造営された。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報