長柄郡(読み)ながらぐん

日本歴史地名大系 「長柄郡」の解説

長柄郡
ながらぐん

上総国の東部に置かれた古代以来の郡。東方は太平洋に面し、南は夷隅いすみ郡、南西は埴生はぶ郡、西は市原郡、北は山辺やまべ郡と接する。郡名に異表記はない。「和名抄」東急本などでは奈加良の訓を付し、同書名博本や「延喜式」民部省ではナカラ、「拾芥抄」でもナカラで、「寛政重修諸家譜」では「ながら」と読んでいる。江戸時代の郡域は現長生ちようせい白子しらこ町・長生村・一宮いちのみや町・睦沢むつざわ町・長南ちようなん町・長柄町および茂原もばら市、夷隅みさき町にわたっていた。

〔古代〕

郡の成立は明らかでないが、天平勝宝七年(七五五)筑紫国へ赴いた防人に長柄郡上丁若麻績部羊がおり、「筑紫辺に舳向かる船の南時しかも仕へ奉りて本郷に舳向かも」と詠んでいる(「万葉集」巻二〇)。「和名抄」によれば刑部おさかべ郷・管見つつみ郷・車持くるまもち郷・兼陀かねだ郷・柏原かしわはら郷・谷部はせべ郷の計六郷が置かれており、「養老令」戸令定郡条の規定では下郡に相当する。車持郷は現長南蔵持くらもちに比定され、東の坂本さかもと埴生郡坂本郷の遺称地と考えられるので、この間が両郡境であったことが知られる。郡家は地名から現長柄町国府里こうりに推定されている。「延喜式」神名帳に長柄郡一座小として「橘神タチハナ社」が記載され、現茂原市本納の橘樹ほんのうのたちばな神社に比定されている。元慶八年(八八四)には正五位上になっている(「三代実録」七月一五日条)

長柄郡刑部郷の近くにあったと考えられる田代たしろ庄は宝亀期(七七〇―七八〇)藤原黒麻呂(上総介・上総守)とその子春継が買得し、春継の遺言により子孫が奈良興福寺に施入したという(寛平二年八月五日「藤原菅根等連署庄園施入帳」朝野群載)。郡の北部にある藻原もばら(現茂原市)は黒麻呂が領有していた牧であったが、開発を進め、同じく寛平二年(八九〇)に施入したという。同庄と隣接する橘木たちばな(のち二宮庄)は橘木神社が所領化したもので、保延六年(一一四〇)安楽寿あんらくじゆ(現京都市伏見区)領になっており、康治二年(一一四三)その四至が示され、「長北郡内」に所在していた(八月一九日「太政官牒案」安楽寿院文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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