日本歴史地名大系 「長楽村」の解説 長楽村ちようらくむら 奈良県:北葛城郡河合町長楽村[現在地名]河合町大字長楽広瀬(ひろせ)神社南方、高田(たかだ)川が曾我川に流入する西岸に立地する。長楽はナガラ(名蔵)の佳字化地名。条里は広瀬郡北郷一三条二里の地にあたり、永承元年(一〇四六)大和国大田犬丸負田結解(東大寺文書)の「石成里」(広瀬郡一三条二里)、同二年同文書の「名成里」(同郡一三条)の地にあたる。「石成」「名成」は「名蔵」の誤写と思われる。また康和三年(一一〇一)小東荘山村吉則紛失坪付案(東大寺文書)の広瀬郡下倉郷一三条二里一二坪の四至にみえる「呉楽畠」に相当する。「呉」も「長」の誤写と思われる。また西大寺田園目録には「十三条二里ナグラ」とみえ、「和名抄」郷名の上倉(かみくら)の地域である。 長楽村ながらくむら 埼玉県:比企郡川島町長楽村[現在地名]川島町長楽戸守(ともり)村の北西に位置し、東は正直(しようじき)村。村の西は都幾(とき)川を隔てて早俣(はやまた)村(現東松山市)、南は越辺(おつぺ)川を隔てて赤尾(あかお)村(現坂戸市)。都幾川が越辺川と合流する所に落合(おちあい)の渡場があった。松山領に属した(風土記稿)。田園簿では長が楽とあり、田高一五二石余・畑高二五七石余、旗本渡辺吉綱領。吉綱はのち野本藩主となる。国立史料館本元禄郷帳では旗本坪内領。その後一部は川越藩領となった(「風土記稿」、天保一二年「川越領村高書上」猪鼻家文書など)。 長楽村ながらむら 愛知県:豊橋市長楽村[現在地名]豊橋市石巻本(いしまきほん)町御油(ごゆ)宿(現豊川市)より嵩山(すせ)村を経て遠州見附(みつけ)宿(現静岡県)に至る本坂道(通称姫街道)に沿う山村。近世初頭には成沢(なるさわ)・入文(いぶみ)・西川(にしがわ)・平野(ひらの)・萩平(はぎひら)・中山(なかやま)の六村とともに西郷(さいごう)と総称していたらしい。 長楽村ながらむら 愛知県:南設楽郡鳳来町長楽村[現在地名]鳳来町玖老勢(くろぜ)集落は寒狭(かんさ)川左岸、海老(えび)川と音為(おとなし)川との間の段丘上にある。塩平(しおだいら)村の枝郷。北は塩平村、東は田代(たしろ)村に接する。小野田家遺銘書(北設楽郡史)によると、分垂(ぶんだれ)川が寒狭川に注ぐ地点の当村側の道は難所だったので、天和二年(一六八二)田峯(だみね)(現北設楽郡設楽町)の小野田長左衛門正直が、父母菩提のため独力で改修した。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by