日本歴史地名大系 「豊橋市」の解説 豊橋市とよはしし 面積:二五七・五七平方キロ愛知県の東端、渥美半島の基部にあたり、東は静岡県、西は三河湾、南は遠州灘に面し、南西部で渥美半島と接続し、北から西には豊川を境として新城(しんしろ)市・豊川市・宝飯(ほい)郡小坂井(こざかい)町と面している。東部の静岡県境に赤石(あかいし)山系に属する標高三五六メートルの石巻(いしまき)山があるが、ほかに高い山はなく、概して平坦である。川は源を静岡県に発する梅田(うめだ)川・柳生(やぎう)川と、三信国境付近から南流する豊川と、その下流に豊川放水路があって、いずれも三河湾(渥美湾ともいう)に流入している。豊橋の名は、明治二年(一八六九)吉田藩が豊橋藩と改名したことにより、市街地の核をなす吉田(よしだ)が豊橋と改名したことによる。吉田の名は、「神鳳鈔」に「外宮吉田御薗」とあるのをはじめ皇太神宮建久已下古文書(神宮文庫蔵)に「吉田御園外」とあるように、長寛元年(一一六三)以前から伊勢神宮外宮領として吉田御園が設置されていたので、この頃からあった地名であろう。〔原始〕市街地北方牛川(うしかわ)町の石灰鉱山である牛川鉱山から、多くの動物化石とともに発見された化石人骨は、牛川人として知られる。ネアンデルタール人に似た特徴が幾つか認められているものの頭骨の発見がない。市域の縄文時代の遺跡として、本坂(ほんさか)峠西側山腹嵩山(すせ)町の嵩山蛇穴(すせじやあな)遺跡、豊川流域花田(はなだ)町の石塚(いしづか)貝塚、柳生川南岸小浜(こばま)町の小浜貝塚、豊川流域大村(おおむら)町の大蚊里(おがさと)貝塚・五貫森(ごかんもり)貝塚がある。弥生時代遺跡として、豊川下流瓜郷(うりごう)町の瓜郷遺跡がある。古墳時代の遺跡は、紙田(かみだ)川・梅田川・柳生川・豊川の各流域に分布し、三八八基が確認されている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「豊橋市」の意味・わかりやすい解説 豊橋〔市〕とよはし 愛知県南東部,豊橋平野の主要部を占める中核市。 1906年市制。 55年二川町と石巻,前芝,高豊,老津の4村,杉山村,双和村の一部を編入。江戸時代には三州吉田として知られ,豊川を自然の堀として左岸の河岸段丘に設けられた吉田城の城下町,東海道屈指の宿場町で,東三河地方の政治,経済の中心地として繁栄した。明治以後一時衰退したが,1885年歩兵第 18連隊がおかれて軍都となり,88年東海道本線豊橋駅が開設された。 1897~1907年花田地区に地下水を利用した製糸工場が集中的に立地。第2次世界大戦後は食品,繊維のほかに鉄鋼,化学などの工業化が進行。 63年には工業整備特別区域に,64年には三河港が重要港湾に指定され自動車輸出の拠点として重要。農業も重要で,農業粗生産額は県下1位と東海3県の1位を占めている。ウナギは浜名湖,大井川と並ぶ全国的な産地である。史跡に嵩山 (すせ) 蛇穴や瓜郷遺跡があり,無形文化財の神明社鬼祭も有名。石巻山石灰岩地帯植物群落は天然記念物に指定されている。東の石巻山を中心とした山岳地帯一帯は石巻山多米県立自然公園に,遠州灘沿いは三河湾国定公園に属する。面積 261.86km2。人口 37万1920(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by