浅水川
あそうずがわ
武生市の東南部文室に源を発し、上流を文室川とよぶ。中流で鞍谷川・江端川を合流し、城山の北方を回って南江守から日野川に合流していたが、近代になって、鞍谷川との合流点から西流し、鯖江市の神明・立待を経て福井市・鯖江市・丹生郡清水町の境で日野川に合流する新河道が開削され、これを通称新浅水川とよんでいる。中流で浅水を貫流するため河名となった。
明応二年(一四九三)七月一〇日付朝倉光玖条々(浄光寺文書)に「従浅水河下方(下略)」と河名がみえる。浅水川に架かる橋には中世関所もあったと考えられる。また近世には舟運の便もあったらしく、覚帳(福山家蔵)の天保八年(一八三七)二月日付の「安保村清兵衛浅水へ通用舟御鷹方へ願」に「私悴多郎八等申者、浅水村へ罷出、酒売買仕候ニ付、小伝馬舟壱艘相整通用仕度」とみえる。
浅水川
あさみずがわ
三戸町の北西部、新郷村境の野沢平に源を発し、東流して八戸市西部で馬淵川に合流する。全長約三五キロ。源流より三戸丘陵、三本木・三沢台地を開析し、沿岸下流に狭い谷底平野を形成する。上流より三戸町・新郷村・五戸町・八戸市の一市二町一村を通過。
正保四年(一六四七)の南部領内総絵図に「野沢川」とあり、明治初年まで野沢川と称された。寛文四年(一六六四)八戸藩が創設されると盛岡藩領の七崎村(現八戸市)より下流は八戸藩領に編入された。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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