長藤村(読み)ながとうむら

日本歴史地名大系 「長藤村」の解説

長藤村
ながとうむら

[現在地名]奥津町長藤

吉井川左岸にあり、対岸奥津川西おくつかわにし村、南は奥津村、北は下才原しもさいばら村。江戸時代には奥津村や上才原村(現上齋原村)と同様に鉄穴かんな流しやたたら盛行をみた。正保郷帳に高一六九石余、うち田方一五一石余・畑方一八石余とある。「作陽誌」では家数三二・人数一八九。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳の改出高三一石余・開高二四石余。享保一一年(一七二六)津山藩の減封により幕府領となり、延享二年(一七四五)から宝暦四年(一七五四)の間は因幡国鳥取藩預地、再び幕府直轄となり、文化九年(一八一二)津山藩預地、同一四年五万石加増により津山藩領となる。


長藤村
ながとうむら

[現在地名]大和村長藤

都賀本郷つがほんごうの北、江川右岸の段丘に立地。かんむり山と源田げんだ山の谷間を響谷ひびきだに川、南境を塩谷しおだに川が南西流し、それぞれ江川に合流。正保国絵図に長藤村とみえ、高一七七石余。元禄一〇年(一六九七)の石見銀山領村々覚によれば田方一三六石余・畑方四〇石余、年貢高は米七七石余・銀三一七匁余、小物成は紙舟役銀二匁・川網役銀一匁・山手役二〇目など、御立山六〇八町余、家数は本家四四・門屋三二、人数二八一、鉄砲一挺がある。宝永石見国郷村帳では高一七八石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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