日本歴史地名大系 「間人村」の解説
間人村
たいざむら
対座(一色軍記)とも書かれ、地元では「たいじゃ」といいならわす。竹野川の河口近い左岸に位置し、南は
古代は間人郷(和名抄)の地。慶長検地郷村帳に高四八一・九八石「間人村」と出る。「間人村之内大間村」の注記がみえるが、幕末まで
地名由来について「丹哥府志」は「聖徳太子の母を穴穂部間人媛といふ。丹後旧事記云、此里と間人媛の由縁ありよつて以て村名とす、今タイザとよむ。或云。間人媛は此村の人なり、蓋御所の壺は其跡なりといふ」と記す。また間人村濫觴記録(「竹野郡誌」所引)は、間人村の地はもと大浜の里と称したが、聖徳太子の母
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報