間倉村(読み)まぐらむら

日本歴史地名大系 「間倉村」の解説

間倉村
まぐらむら

[現在地名]岡山市間倉

河原かわはら村の東に位置し、北は上房じようぼう黒山くろやま(現賀陽町)真鞍まくら岳の山上が高原となり、標高四〇〇メートル前後に集落がある。山容が馬の鞍に似るのが村名の由来と伝える(備中誌)。慶長六年(一六〇一)木下家定に「間倉黒山」二一九石余が与えられた(「徳川家康宛行状」足守木下家文書)。寛永備中国絵図には「まくら村」とみえ同高、足守藩領。正保郷帳には枝村として「くいだ村」を記す。貞享二年(一六八五)賀陽郡・上房郡寺社改帳(総社市史編さん室蔵)によれば高四八五石余、家数九六・人数四七一、村内神社の所在を示す地名に杭田くいだつじ湯谷ゆだにと並んで黒山がみえることから、黒山村とはまだ分村していないと思われる。


間倉村
まぐらむら

[現在地名]多古町間倉

飯篠いいざさ村の南西に位置する。西は上総国武射むしや菱田ひしだ(現芝山町)。寛文四年(一六六四)の松平乗久領知目録(寛文朱印留)に村名がみえる。これより先の同二年に当村のうち一八石余が旗本神尾領となっているので(天保一四年「知行郷村高帳」中富自治区文書)、同四年当時は同氏領と佐倉藩領の相給であったと考えられる。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分によると高一一八石余、旗本神尾・内藤石屋・山角領と与力給知。寛政五年(一七九三)の村明細帳(多古町史)によると、与力給知三六石余・石谷(石屋)領二七石余・神尾領一八石余・山角領一八石余・内藤領一八石余で、家数二四・人数一〇五、馬六。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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