菱田村(読み)ひしだむら

日本歴史地名大系 「菱田村」の解説

菱田村
ひしだむら

[現在地名]芝山町菱田

高谷たかや川の最上流、住母家すもげ村の北にある。多古たこ道が通り、宿しゆくの地名が残る。元亀二―三年(一五七一―七二)頃と推測される八月二八日の千葉胤富書状(原文書)に「ひし田」とみえる。本佐倉もとさくら(現酒々井町)にいた胤富は北条氏政が江戸に着いたことを知らせるとともに、それに呼応して森山もりやま(現小見川町)の城将石毛・海上両氏に対して、九月一日に「ひし田」まで総出で出陣するよう要請したものと考えられる。また同じ頃と思われる千葉胤富書状断簡(同文書)によれば、氏政が今月三日に相州小田原を立って六日に小金こがね(現松戸市)に着陣するとのことなので、六日に城を立ち「ひし田」に陣をとったうえで、本佐倉には向かわず七日に印西いんざい(現印西市の小林城か)に向かうよう、石毛・海上両氏に命じたものと考えられる。「ひし田」は森山城と本佐倉城の間にあり、かつ森山城と印西小林こばやし城との中間にあることから、当地に比定される。


菱田村
ひしだむら

[現在地名]大崎町菱田

大崎郷神領じんりよう村の北東にあり、北東は志布志しぶし野井倉のいくら(現有明町)、北は同郷蓬原ふつはら(現同上)。菱田川右岸の比較的平坦な村で、北東端菱田川河口付近に志布志筋渡船場があった(三国名勝図会)南東は海(志布志湾)に面し、海岸に沿って松林(現在のくにの松原の一部)が連なっていた。正平一四年(一三五九)八月三〇日の島津氏久安堵状(旧記雑録)に「求仁郷永吉東方比志田」とみえ、このうち地頭屋敷二ヵ所(平九郎薗・海入道薗)ならびに法橋薗一ヵ所・江六薗一ヵ所が、先日祈願の旨に任せ鹿児島諏訪神社(現鹿児島市南方神社)に寄進された。永和三年(一三七七)一一月七日には比志田村内沙門堂敷地免田畠が島津氏久から同堂住持玄祐庵主に寄進された(「島津氏久寄進状写」大慈寺文書)


菱田村
ひしだむら

[現在地名]精華町大字菱田

木津きづ川西岸の煤谷すすたに川以北を村域とし、村の西部を南北に奈良街道(歌姫越)が通る。地勢は「西舞鶴ぶかく山ヲ負ヒ東木津川ヲ帯フ、土地概高燥ナレトモ、東部ハ平坦ナルヲ以テ運輸便利」であった(京都府地誌)。また「京都府地誌」は「旧ト民居ヲ三部ニ分チ、東ヲ滝ケ鼻ト云ヒ、東南ヲ宮ノ前ト云ヒ、中央ヲ菱田ト云ヒ各其区域ヲ異ニセリ、然ルニ何レノ時カ合併シテ今ノ称ヲ用フ」と記し、字地として「とうつぼ・鈴川原・七ノ坪・奥久保・後来ごうらい・茶屋前・上久保田・宮西・中久保田・宮川原・西川原・八講田はつこうでん・東川原・川原道・中川原・西ノ口・新池・前川原・市ノ坪・片原・五ノ坪・わら原・黒原・落又毛おちまたげ・九ノ坪・六ノ坪・八ノ坪・野田・門田・川田・縄添・元屋敷・いつみ つくり・山路・桑町・狭間はざま・アヅイ・山ノ下・大谷口・試作しさく」をあげる。


菱田村
ひしだむら

[現在地名]浦川原村菱田

保倉ほくら川左岸、東頸城丘陵の山裾に立地する。西は長走ながはしり村、東は高谷たかたに川を隔てて有島ありしま村。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「御料所窪田扱八幡分直嶺分ひし田村 上」とあり、本納三六石四斗八升五合・縄高八八石二斗六升二合、家六軒・二〇人。今熊いまぐま村・桜島さくらしま村・長走村と進む保倉川左岸の道が当村まで延びる。正保国絵図に高一六七石余とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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