阿曾村(読み)あそむら

日本歴史地名大系 「阿曾村」の解説

阿曾村
あそむら

[現在地名]大宮町阿曾

大内山おおうちやま川右岸、野後のじり村の南にある。当地は伊勢神宮の御杣山の地として知られる。地名としては「吾妻鏡」寛元二年(一二四四)八月二四日条に「伊勢国阿曾山并熊野山悪党蜂起之間」とみえるのが早い。文永三年(一二六六)の御遷宮沙汰文(「神宮御杣山記録」所収)に「阿曾御薗」、弘安九年(一二八六)の通海の「太神宮参詣記」に「滝原並宮両所軒ヲナラヘテ、阿曾ノ御杣ト申、豊受太神宮ノ御杣山ニ御坐アリ」と記されている。通海が阿曾御杣に滝原たきはら二宮が御座ありと誤って記すほど、当時蒼林一帯に生いつづいた。

阿曾城跡について「五鈴遺響」は「大内山但馬守居セリ」とし、「伊勢名勝志」は「阿曾村字片山ニ在リ雑木茂生ス戦国ノ時阿曾弾正忠一本ニ大内山但馬守ニ作ル之ニ居ル北畠氏ニ属ス永禄十二年大河内城ノ役国司具教ニ従ヒ籠城ス天正四年北畠具親ニ従ヒ飯高郡森城ニ戦死シ城廃ス」と記す。


阿曾村
あそむら

[現在地名]太子町阿曾

馬場ばば村の西に位置し、西は林田はやしだ川東岸に接する。鵤庄引付(斑鳩寺文書)にみえる阿曾乃万大夫は当地出身の住人と思われ、応永一五年(一四〇八)頃に寺兵士役を勤めている。同二三年いかるが庄西方恒真内二四条羽山三段は阿曾太郎太夫に宛行われていたが、年貢を未進している。ただし当地は鵤庄の西隣弘山ひろやま庄域内にあった。天正九年(一五八一)三月一八日の羽柴秀吉知行方目録(浅野家文書)には松山(弘山か)と肩書されて阿曾村がみえ、高一〇六石余が浅野長政に与えられている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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