(小和田哲男)
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安土(あづち)桃山時代の武将。職隆(もとたか)の子。天文(てんぶん)15年11月29日、播磨(はりま)国(兵庫県)飾東(しきとう)郡姫路に生まれる。幼名万吉。官兵衛、勘解由(かげゆ)と称し、剃髪(ていはつ)して如水(じょすい)と号した。父職隆のとき播磨国守護赤松氏の一族小寺氏に属し、小寺姓を与えられて姫路城を預かった(孝高のとき黒田姓に復す)。天正(てんしょう)(1573~92)の初めごろ織田信長に通じ、1577年(天正5)中国攻略のため播磨に入った豊臣(とよとみ)秀吉を姫路城に迎え入れ、以後秀吉に属して中国攻略、四国攻略に従軍。87年(天正15)九州平定後、豊前(ぶぜん)6郡を与えられて中津に入った。89年44歳のとき隠居し、家督を長政(ながまさ)に譲ったが、その後も秀吉に従い軍師として活躍。文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役にも従軍した。関ヶ原の戦いに際しては九州にあって大友義統(よしむね)を下し、豊前小倉(こくら)の毛利勝信(もうりかつのぶ)を攻め、島津氏を討つため筑後(ちくご)から肥後水俣(みなまた)に進んだ。戦後、長政が筑前一国を与えられたため福岡に移り、慶長9年3月20日京都伏見(ふしみ)で没した。博多(はかた)松原(福岡市)の崇福寺に葬る。キリシタン大名としても名高く、高山右近(うこん)に導かれて洗礼を受け、シメオンと称した。
[柴多一雄]
織豊政権期の武将。名は官兵衛。勘解由次官,如水円清などを称す。一族は,播磨守護赤松氏や小寺氏に仕え,初め小寺姓を名のった。織田信長の中国進出にくみし,羽柴秀吉の参謀として軍略家の名をはせた。1578年(天正6)荒木村重が信長に背いたとき,説得に赴いたが失敗した。80年,播磨揖東郡内1万石を与えられたのを始めとして,数々の戦功により,九州征伐後の87年には,豊前6郡を領した。89年,剃髪して家を子長政に譲り,秀吉に近侍し,小田原征伐,文禄・慶長の役などおもに軍事面で活躍した。1600年(慶長5)関ヶ原の戦では,子長政とともに徳川家康にくみし,豊後で大友吉統(よしむね)と戦い捕虜とした。その功で,黒田家は筑前一国を領した。熱心なキリスト教徒で,洗礼名をドン・シメオンと称し,そのキリシタン名を印文にした印判状を発給した。遺言により博多の教会堂に葬られた。
執筆者:高木 傭太郎
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1546.11.29~1604.3.20
織豊期の武将。職隆(のりたか)の子。万吉・官兵衛。勘解由(かげゆ)。号は如水。1577年(天正5)主家の小寺氏に織田信長に通じることを勧め,豊臣秀吉を播磨に迎えた。以後秀吉の股肱として,播磨攻略,高松城水攻め,毛利氏との講和交渉などにあたった。87年豊前国6郡をえて中津に入部。89年家督を子の長政に譲った。文禄・慶長の役に出陣。関ケ原の戦では九州で東軍として戦った。伏見で没。1583年高山右近の感化で受洗し,洗礼名シメオン。
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…秀吉は大唐国の征服をも意図し,その出兵基地として九州を構想していたので,島津氏征服はその構想にも好つごうであった。そこで8月,黒田孝高らを九州に派遣して豊前を攻略させ,また仙石秀久を豊後に派遣して島津氏攻略を開始した。さらに12月に檄(げき)を畿内,北陸などの諸国に伝えて20万余の大軍を構成し,翌87年正月に九州攻略の部署を決定し,3月1日みずから京都を出発した。…
…豊前国下毛(しもげ)郡中津(現,大分県中津市)に藩庁を置いた譜代中藩。1587年(天正15)九州統一に成功した豊臣秀吉は,黒田孝高(よしたか)に豊前国京都(みやこ),仲津,築城(ついき),上毛(こうげ)(以上,福岡県)と宇佐,下毛(以上,大分県)の6郡,12万5000石(一説には15万石)を与え,中津藩が成立。1600年(慶長5)関ヶ原の戦ののち,細川忠興が豊前一国と豊後のうち国東・速見両郡の30万石(01年の検地実施後,内高は39万5995石)の領主として中津へ入封。…
…織田と毛利の間にあって播磨の諸勢力の帰趨はなお定まらなかったが,78年毛利に通じて信長に反旗をひるがえした三木城の別所長治が籠城2年にして80年正月自刃して開城し,次いでこの年赤松広秀の竜野城,三木通秋の英賀(あが)城,宇野政頼の長水山城が落ちて,播磨平定はここに完了した。秀吉は黒田孝高のすすめで姫路城を本拠と定め,毛利氏攻略を目ざした。しかし本能寺の変(1582)がおきたため,秀吉は姫路を去って大坂城に移った。…
…兵庫県南西部,播磨灘に臨む商工業都市。1889年市制。人口47万0986(1995)。播磨平野の中央に位置し,古来海陸交通の要地であった。播磨国府,国分寺が置かれ,14世紀中期に赤松氏が城を築いた。江戸時代には姫路藩の城下町で,西国のおさえとして重視された。明治中期には師団が置かれて軍都の性格が強まった。また皮革,紡績,食品などの工業も早くから勃興したが,1937年に日本製鉄(現,新日本製鉄)が夢前(ゆめさき)川河口の広畑への進出を決定して以降,鉄鋼を中心とする重化学工業化が市域南部の臨海地区で急速に進んだ。…
…起源は1346年(正平1∥貞和2)赤松貞範が姫山に城を築いたことに始まる。近世の築城は,1580年(天正8)に当時の城主黒田孝高(如水)が,毛利氏と戦うべく西下した羽柴秀吉にこの城を明けわたし,秀吉の居城として普請したのに始まる。秀吉の後もその親族が城主であったが,関ヶ原の戦後,徳川家康はここに池田輝政を封じ,西国大名に備えた。…
※「黒田孝高」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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