日本歴史地名大系 「大宮町」の解説
大宮町
おおみやまち
- 埼玉県:大宮市
- 大宮町
大宮台地の中心部に位置し、東部は見沼の沖積低地で、郷大宮之村御縄打水帳写(小島家文書)が一冊残るが、何冊か作成された検地帳を書抜き一冊に編集したとみられ、断片的で全貌は不明。同水帳写では地積は大半小で記されているが、畝歩換算をすると田四町余・畑四五町三反余が確認される。名請人は一五人で、うち大塚は一八町三反余を名請している。一町以上の名請人は一一人。名請人のなかに氷河・神主・潮田などの名がみえ、氷河・神主は氷川神社に関係する者、潮田は戦国期の潮田氏にかかわる者と思われる。ほかにも姓で名請している者が大塚を含め一〇人おり、戦国期の小田原北条氏の給人か、潮田氏の家臣かとも考えられる。文禄三年(一五九四)旗本疋田氏は大宮之村の一部を宛行われ(「疋田喜右衛門様御知行分之帳」小島家文書)、正保(一六四四―四八)頃までに土手宿村として分村した(田園簿)。天正一九年に大宮の内で寄進された氷川神社領一〇〇石も、慶長七年(一六〇二)には高鼻村として分立している(「徳川家康寄進状写」西角井家文書)。
慶長七年中山道に宿駅の制度が設けられた。「風土記稿」には中山道が開かれた頃、伊奈忠次によって百姓屋敷四二軒の地子が免除され、人馬継立をするようになったとある。しかし天明六年(一七八六)の当宿七組発端(栗原家文書)によると、天正一九年栗原家の先祖が宿駅業務と地子免除を願出たさい宿駅には指定されたが、地子は免除されなかったという。中山道はかつては氷川神社の参道を通り、同社西側を通って裏大門を左折し北上する道筋であったというが(風土記稿)、異説もある(栗原家文書)。
大宮町
おおみやまち
- 静岡県:富士宮市
- 大宮町
富士山の南西麓、
〔中世〕
文永一一年(一二七四)五月と推定される一七日付の日蓮書状(日蓮聖人遺文)によれば、佐渡での流人生活を許された日蓮は甲斐
大宮町
おおみやちよう
- 京都府:中郡
- 大宮町
中郡のほぼ東半部を占める。北東の
町域は東西一三・五キロ、南北一一・三キロ。およそ西は中郡平野を按分して
大宮町
おおみやちよう
- 三重県:度会郡
- 大宮町
紀伊山脈の分岐嶺を境として東に度会町、南に
大宮町
おおみやまち
大宮町
おおみやちよう
大宮町
おおみやちよう
大宮町
おおみやちよう
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報