陰田村
いんだむら
[現在地名]米子市陰田町・祇園町二丁目
大谷村の南西にある。米子平野の南西部出雲国境に接し、南北に長い谷に沿う。犬田とも記され、南部の古い集落を奥陰田、近世に入って北部に延びた新集落を口陰田と称する。西方出雲国能義郡吉佐村(現島根県安来市)から当村、大谷村を経て北方米子町へと出雲街道が走る。
天文二年(一五三三)二月五日の尼子経久寄進状(日御碕神社文書)に「伯州相見郡福田保犬田村」とみえ、三斗六升入り俵五〇俵(一〇合枡)が経久から出雲日御碕神社(現島根県大社町)に寄進された。同日付の田地坪付状(同文書)によればこの地は「五居之前」にある計二町八反で、もし同所に干水等があれば、他所から実質五〇俵を社へ納めると決められている。また同年二月二六日には経久の寄進状どおり末代まで社領として安堵するという孫尼子詮久の寄進状(同文書)が出された。天正一二年(一五八四)六月一〇日日御碕神社検校小野元政が毛利氏へ提出した出雲国当知行覚(小野文書)にも「伯州犬田村古帳五百石」が含まれ、翌一一日毛利輝元の安堵状(日御碕神社文書)が出された。だが日御碕神社の知行が難行したらしい。同一九年頃米子入城に先立ち、吉川広家は元政の訴えにより犬田村が同社本領であることを認め、米子入部後返付することを約した(年未詳三月六日「吉川広家書状」伯耆志)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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