隈之城・隈之城郷(読み)くまのじよう・くまのじようごう

日本歴史地名大系 「隈之城・隈之城郷」の解説

隈之城・隈之城郷
くまのじよう・くまのじようごう

川内川南岸、同川支流隈之城川・百次ももつぎ川流域にあり、川内平野南東部を占める。北東は薩摩郡百次郷、北西は同郡平佐ひらさ郷。隈城くまのじようとも記される。

〔中世〕

室町期には碇山いかりやま城を本城とした島津総州家の勢力下にあったとみられる(「島津師久譜」旧記雑録など)。応永一七年(一四一〇)島津伊久が没して同家の力が衰えたのちも、同家久世とその叔父忠朝は同一八年には奥州家島津久豊らの軍勢と戦っている。しかし同年八月久豊の父元久が死ぬと久豊は久世と手を結び、忠朝は同二〇年「隈城」に帰った(応永記)。その後久豊と伊集院頼久との間に後継者争いが起きると、久世・忠朝は頼久と結んで久豊と戦い、同二四年久世が自刃し後盾の伊集院頼久が去ったのちも忠朝は山田の永利やまだのながとし城に籠って、同二五年には入来院重長らの攻撃を退けた。だが重長らを救援する島津久豊の大軍に攻められると、翌二六年八月永利城を放棄して隈之城を保ったという(「応永記」など)。忠朝の拠った隈之城は別名二福にふく城という。築城の時期は不明だが、あるいは鎌倉―南北朝期に当地一帯を本拠とした薩摩郡司一族により築かれたものか(川内市史)。忠朝は応永二八年八月久豊方の島津忠国の軍勢に城を攻撃され、同二〇日降伏して城を明渡し鹿児島に移った(「島津国史」、「島津久豊譜」旧記雑録など)。文明六年(一四七四)の行脚僧雑録(旧記雑録)によれば、隈城に猿渡氏が配され、「雲遊雑記伝」では猿渡に筑前守信宗の注記がある。同一八年には守護島津忠昌は「くまの城」に入った(一〇月一日「島津忠昌書状」同書など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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