朝日日本歴史人物事典 「隈部親永」の解説
隈部親永
生年:生年不詳
戦国時代末の肥後(熊本県)山鹿・菊池郡の国人領主。隈府城主。刑部丞,但馬守,筑後守。旧守護大名菊池氏三老臣家の後裔で本来長野城主。天正6(1578)年,竜造寺氏と結んで赤星氏を追い,隈府城を入手。同12年島津氏に下り豊臣秀吉の九州出兵で本領を安堵されるが,肥後国主として隈本にあった佐々成政の検地に抵抗,天正国人一揆の発端を作る。成政の出兵に対し隈府で籠城,いったんは降伏したが子親泰の山鹿郡城村城の籠城に加担,国内の国人らに成政不在の隈本城を包囲させ,その攻勢をかわした。その後,秀吉の命による立花氏ら他国軍勢の包囲を受けて降伏。同16年柳川黒門前で殺される。<参考文献>『上井覚兼日記』『立花文書』『小野文書』『拾集昔語』
(阿蘇品保夫)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報